鍛えられてない老人の大量発生

GW前後になぜか老人がらみの話題がいくつか。

……といっても、空気の読めないタイプの人間はどこにでもいるもので、こういう(誰もがとっとと終わりたいと願っているような)場で、質問と称して自説を長々とぶち上げる人が何人か。高齢化の進む自治会ということもあって、多くの参加者がリタイアしたオジサンたちなんだけど、まぁなんだ、年とってるがゆえにずいぶん視野の狭いことをおっしゃるものである。

彼のように力のある人が老いる事を知らないというのは、実は結構な悲劇だ。いつまでも若くあることを踊に暗に諭されては、物理的に若い者達の居場所はいつできるのだろうか?

あれっと思った二つのことがあった。一つは銭湯の老人だ。私は当時銭湯が好きでよく通っていたのだが、老人のマナーが崩れだしたという感じがしていた。老人の裸体などというのは美しいものではないのだが、みな公共空間のなかでその分をわきまえていた。水の使い方にも歩きにも風呂の出入りにも無駄がなかった。ばしゃっというのはあるのだが、それは身体を洗った最後の締めの伝統芸のようなものだった。が、そうした老人が変わってきたと銭湯で思った。その後、私はわけあって銭湯には行けなくなった。その後は知らない。

それぞれ含蓄のあるエントリーなので、これらを「老人の幼稚化」とか言ってまとめてしまうのは、随分浅い勝手読みになってしまう、それこそ幼稚な話なのだけど、どのエントリも「経験によって鍛えられている視線」が「経験によって鍛えられてない老人」を見ている話である、という共通点はあると思う。

視点や主題や深さはそれぞれ違うけど、どのエントリーにも「経験によって鍛えられた視線」というものがある。

たださんの場合は、ご本人もどれだけ意識しているかわからないけど、「自治会」を見ている視線の中に、「tDiaryコミュニティ」や普通の仕事での経験があるように思う。見て「う〜む」と言ってるだけだと思うけど、その「う〜む」の中に。

弾さんの場合は、尋常ではないマルチな才能を発揮されている人が、やはり尋常ではないマルチな才能を発揮されている人を見てこそ感じる凡人にはわからないレベルで発生している「結構な悲劇」。

finalventさんの場合は、それを「あえて」言うことの意味。

「経験」というものが圧倒的に不足している世代と充分に供給されている世代とのいかんともしがたい差を感じる。