悩む人と悩まない人

今井クンの現在の苦悩というものを想像すると「なんで、日本の人たちは自分たちの正しさをわかってくれないんだろ」という一点に集中しているような気がする。決して自分たちの「正しさ」を疑ってはいないだろう。自分たちの「正しさ」が本当にイラクの人の為になるもので、自分たちの「正しさ」が日本全体の意見としてそのままイラクに届くことを願っていて、そのことには何の疑いもなく、ただ、それが何故か受けいれられない、そのことだけをひたすら悩んでいるのではないか。

そのような苦悩は、自分たちの「正しさ」を日本に強制するという方向に向かうのではないかと、どうしても想像してしまう。

これは私が彼の会見を見た印象でしかないので、そこには偏見があるのかもしれない。しかし、ああいう状況に置かれたら、「自分たちはせいいっぱい考えて正しいことをしているつもりだ、しかし、それが本当に正しいのだろうか」という疑念があって当然だと思う。それが、どうしてもうかがえず、「なぜ自分たちは理解されないのだ」という怒りばかりを感じてしまう。

アメリカが99%悪で彼らが99%善なのかもしれないが、残りの1%づつに一切の思いが至らないのは、「ジャーナリスト」として致命的な問題だと思う。国際紛争というのは、その1%でさえもたくさんの悲劇を産むもので、自分のしていることに疑いをもたずにすませられないものではないのか。

フリーのジャーナリストが個人として危険な現場に入り、そのような矛盾をかかえこみ悩むということは意味がある。勝谷さんの証言は、まさにそのような意味で重要な価値がある。彼の日記はドロドロしていて、強烈が怒りや怨念がうずまいていて、それがグルグル回っている。机上の空論による安易な解決策を許さない迫力がある。

それが国際政治の「現場」というものだと思う。絶対的に正しい解決策はないし、相対的な正しさに確実に向かう保証もない。わからない中で行動しなくてはいけない。そういう「現場」の感覚にわずかでも近づく為には、勝谷さんのような証言者は必要である。

20世紀は自分たちの「正しさ」に疑念の無い人たちの歴史であって、そのような信念がどういう悲劇に至るかの教訓が、そこにはたくさんある。今井君個人を疑うというより、そのような教訓を一切くみとらずに、国際政治に関わる領域で「ジャーナリスト」として活躍しようとする彼の、背景というものを考えてしまう。

彼の「背景」というものを想像しなかったら、彼はひとりの市民として、よくやったと言わざるを得ない。もちろんいくつかの問題点は指摘できるが、それは各論的なもので、総論としてはまず彼の勇気と行動力を認めるべきだ。全ての疑惑に答える必要なんかなくて、とにかくカメラの前で自分の思う所を述べただけで充分である。私がここで指摘しているような、思想や感性の歪み等も非難のネタにはすべきではないだろう。個人には歪んだり特定のことから目をそらす権利だってある。

しかし、彼に「背景」というものを想定すると、彼には細かい疑問に全て明確に答える義務がある。私としては、彼が直に接した「不器用な」人たちが、日本という国を何より被曝国であって平和憲法の国と意識している、あの声明文を書いただろうか、という疑問にまず答えてほしいと思う。

彼をひとりの市民として見るべきか、「背景」によって使われた駒であったかもしれない人と見るべきか、それは私にはわからない。

しかし、私は彼の感性と思想の偏りをてがかりに、「背景」を想像し、その「背景」の背後関係を想像する。

絶対に指導者の「正しさ」を疑ってはいけない国と、「正しい」ことを手段選ばず強制しようとした組織の関与を、私はいまだに疑っている。そこには現実的な利害関係と、思想的なつながりがある。

そのような疑いを持つことに、絶対的な正当性があるとは思わない。迷いつつも、私はこの疑いを述べることにした。私は、常に迷って自分を疑っている。