進化心理学をちょっと齧って思ったこと

進化心理学の本を何冊か読んでみて、これは大変面白い分野だけど、ちょっとモノの言い方を間違えてると思った。言い方が悪くて受け入れられてないように感じて、もったいないと思ったので、それについて書いてみたい。

まず一番の間違いは、進化心理学ではすぐに「人間はこうだ」と言いたがる。これは、典型的な「主語が大きい」言い方だ。

進化心理学が本当に言っていることは、人間全部についてでなく一部の人間についての話だ。

昔々あるところに兄弟がいた。長男がカインといい、次男がアベルという。カインは嘘つきでアベルは正直者だ。これを見て、進化心理学は「人間は嘘つきだ」という。

たとえば、この本にそんなことが書いてるが、本当にこの本が言っているのは、「カインは嘘つきであなたはカインの子孫だ。なぜなら、アベルには子供がいなかったからだ」ということだ。

しかも、カインはただの嘘つきではなく自覚のない嘘つきだという。カインは自分が嘘をついていることを知らないという。

俺は、由緒正しい血筋の生まれなので、そんな恥知らずな先祖はいないと思った。誰だってそう思うだろう。先祖を貶されていい気分になる人はいない。ここは、もう少し丁寧にいうべきだ。

カインが嘘をつき自分でそれを嘘と思わない確率は51%、アベルが同じことをする確率は49%。カインもアベルも二人の子供がいて、親の遺伝子を受け継いで、ちょっとだけ変異がある。カインの長男が嘘をつきそれを嘘と自分で理解しない確率は52%、カインの次男は50%、アベルの二人の子供はそれぞれ、50%と48%。以下同様に親の遺伝子を受け継いて少しだけ変異する。

あなたがカインの一族であるかアベルの一族であるか、その確率は、それぞれの子孫が生き残った割合に比例する。カインよりアベルの方が生き残る確率がちょっとだけ高くて、カインの子孫が51億人、アベルの子孫が49億人。断言はできないが、あなたがカインの子孫である確率はアベルの子孫である確率よりちょっと高い。

こんなわずかの違いの話だ。でも、このような淘汰を何百世代も続けると、カインの一族が圧倒的に多くなる。

そして、進化心理学の関心事は、生き残った一族の方だ。人間にはカインもアベルもいて、あなたに兄弟がいれば、嘘をつきそれを自分が認知しない脳の傾向に、ほんのちょっとの偏りがあるだろう。その偏りはあなたたち兄弟の子孫にも受け継がれ、その微妙な違いは、一族の間の平均値の微妙な違いになり、そのことが、生き残り子孫を持つ確率の微妙な違いを生み、子孫の人数が偏る。

進化心理学は、「生き残った一族の人間は」と言うべきところで、「人間は」と言う。これは主語が大きく誤解を生みがちだが、これを勉強する人間のほとんどは生き残ったカインの末裔なので、実用的であるとは言える。

だから、進化心理学の本に「人間とは」と書いてあって、それにムカついたら、「人間にはカインもアベルもいる」と反論していいと思う。「そして、俺はどちらかと言えば、アベルの方に興味がある」と言ってその本を投げ捨ててもいいと思う。

でも、生き残った人間に関心がある人には、役に立つ。

そして、脳の偏りが生き残り子孫を残す確率に本当に影響するかどうか、そこは批判的に読めばいいと思う。ただ、「進化」と言うだけあって、ものすごく気が長い話をしている。何十万年とか何百万年だ。

そして、そこに第二の誤解がある。

誤解というか説明の順番がよくない。

江戸時代とか平安時代ならまだしも何十年も前の先祖と言ったら、ほとんどサルだろう。サルじゃなくても狩猟採集だろう。それはいくらなんでも現代人とは関係ない話じゃないのか?

俺もそう思っていただが、この本で納得した。

狩猟採集の時代の先祖は、自然環境における淘汰によって、選別された。それはまあ納得する。問題はその「自然環境」とは何かということだ。

サルのような先祖にとっての「自然環境」とは、美味しいリンゴを早く見つけることとか、怖いクマとかライオンから逃げることとか、寒い時に焚き火をたいて暖をとる知恵とか、少ない食料でも生き残る体力とか、そういうことだと誰でも思う。

ところが、サルが原人になって、草原に追い出された時、集団で石投げをすることによって、先祖は突然、強者になったと言う。集団さえ作れれば、先祖にとって自然環境は手強いものではなくなり、けっこう楽勝で生き残れるようになった。

その代わり、集団を追い出されると、単体ではまず生き残っていけない。どんなに腕力が強くても次の石を拾っている間に、ライオンに襲われてしまうし、どんなに足が速くても逃げられない。

だから、先祖にとって「自然環境」とは、ジャングルではなく、集団内の社会的生活だったのだ。

カインはアベルより、足も遅く目も悪く獲物を見つけるのが遅く、石も遠くまで投げられない。でも嘘をつく反射速度が少しだけアベルより早い。それが嘘であることを自覚できないからだ。この二つの個体を原人の「自然環境」におくと、仲間の人望を失い間違って群れから追放される確率が、ほんのちょっとだけ違う。カインの方が追放されにくいのだ。

そのほんのちょっとの違いを複利計算で何百世代、何千世代も重ねたその結果、あなたはカインの子孫であると、進化心理学は言っているのだ。

これはわかってみるとよく納得できる話だが、前提として、淘汰を産む自然環境とは、人間にとってはまず第一に社会的生活である、ということがもうちょっと強調されてもいいと思った。

そして、もう一つ欠けている説明があると思う。これは他にも何冊か読んだが書いてなくて、私が自分で考えたことだ。

それは、群れの中での淘汰と、群れ同志の淘汰の葛藤だ。

群れの中でカインのような口の上手いやつだけが生き残り、それを何百世代も重ねたら、群れの中には社会性以外に取り柄がないやつばっかり残る。そしたら、危険を犯して獲物を仕留めたり、他の群れとの縄張りの取り合いの戦争で働く奴がいなくなる。

そういう群れは、他の、ちゃんと仕事をする奴が生き残っている群れによって淘汰される。

だから、あなたは社会性に全振りしたカインの子孫ではない。

社会性に全振りしたカインは群れの中では生き残るだろう。さらに、カイン同士が生存競争をして、もっとも嘘の上手いカインが多数になっていく。だが、そういう群れは、アベルがたくさんいる群れによって、獲物や縄張りを奪われ淘汰される。

つまり、自然環境の中では、群れの中でも淘汰圧力と、群れ同士の淘汰圧力があって、生き残るのは両方の競争に勝った者だ。

ということは、我々の中には、カインの脳とアベルの脳、つまり、自分が属する社会の外にある、本物の自然や共同体のルールが及ばない他の群れの法則に着目し、それをコントロールしようとした脳が、両方生き残っていて、両者は常に葛藤していると考えるべきではないだろうか。

そして、カインの末裔は文系になり、アベルの末裔は理系になった。

あるいは、カインの末裔は公家になり、アベルの末裔は武士になった。

カインの末裔がワイドショーのコメンテーターになり、アベルの末裔が実証的な研究を今必死でしている。

もし、進化心理学が生き残った人間について述べるのであれば、この葛藤を調停する仕組みについて言及すべきだ。そして、それが脳のかなり深いレベルに存在していることを予見すべきではないだろうか。

これを調停する仕組みは、文字や論理より古く、たとえば脂っこいラーメンを思わず食ってしまうような衝動のレベルで、存在しているはずである。そうでなければ、我々は生き残っていない。

コロナウイルスについてのワイドショーを見ていると、人間の社会脳に対する適応に全振りした人が出てくる。知識がないわけではないので、自分の嘘を自覚する機能にストッパーがかかっていて、淘汰圧力はその能力(というか欠陥)をより強く持つ個体を生き残らせたという説は本当だと思えてくる。それに過剰反応する人も同じで、危機に過剰に社会的な意味を与えた反応をしがちな、カインの末裔である。

でも、この問題は、テレビやツィッターができるずっと前から、人類を悩ませた問題なので、これを処理する仕組みが、人間の脳の中にはあるはずである。

いや、自分で言っておいて、主語が大きすぎた。正確に言おう。

人間には、理性的に処理すべき事物を党派性に回収したがる、この葛藤が産む混乱で破滅する可能性があり、実際に過去にたくさんの部族が滅亡した。でも、我々は生き残った方の子孫であるのだから、先祖から、それを処理できる仕組みを持った脳を受け継いでいるはずである。

安心のかたちはみんな違う

後ろ暗いことを長年してる会社には、隠蔽を担当するチームがあるはずだが、そのチームの部署名はまず「隠蔽課」であることはない。隠蔽を長年続けるにはまず隠蔽していること自体を伏せなくてはならない。これは「隠蔽」というものの持つ普遍的な性質である。

人間のこころの中には、さまざまな隠蔽の仕組みがあるが、その中で重要なものの一つが「死の恐怖」の隠蔽である。誰でも自分がいつか死ぬことは知っているが、何かの間違いで戸愚呂弟に追い詰められるて、あの有名なセリフを言われるようなことでもなければ、そんなことは普通誰も考えない。だからと言って、単純に、自分はそんなことを感じたことも考えたこともないと思うのは、問題のある会社の社員が「ウチの組織図を見ましたけど隠蔽課なんてないですよ」と言っているようなものだ。

コロナウイルスの要求する行動変容は、みんなのこころの中で人知れず活動している「隠蔽課」を直撃する。「死の恐怖」ならびに「死の恐怖の隠蔽」の隠蔽という業務遂行において、「みんなで集まって騒ぐ」ということと「対面で絆を確認しあう」ということは欠かせない要素である。騒いでいるうちに忘れてしまうし、友人や家族との絆を体感的に確認することで、仮に自分が死んでもこの世になんらかの痕跡が残るというような幻想を維持できる。

しかも大災害の時のように、心の中全体が大騒ぎで全ての部署が忙しければ、隠蔽課があわてていても目立たないが、StayHomeと手洗いだけを例外としてとりあえず日常が続いていると、会社全体の中で隠蔽課だけがあわてている様子がクローズアップされて、はなはだまずい。

インターネットが最近ギスギスしているというのは、こういう事情ではないかと私は想像している。

隠蔽課の表向きの業務がなんであるかは人それぞれだが、外から見ると、攻撃的な書き込みを連発しているように見える。「あなたはなんでそのような書き込みをしているのですか」と聞いてみると、その課の表向きの業務がわかるが、実際にしていることは隠蔽ならびに隠蔽の隠蔽であることが多い。そのようなことを尋ねても「ウチの会社にはそのような部署はありません」という回答しか返ってこない。

ただ、そういうことをどうしてもしてしまうものなら、インターネットでやるのが一番いいと私は思う。インターネットならいろいろな形でそれを見ないという選択肢が用意されているからだ。

不安のためにデマに踊らされてデマを拡散してしまうのはまずいけれど、デマの背後には、その人がどのように安心を得たいのかという切実な願いがある。

どういう情報で安心を取り戻すのかは人それぞれで違うし簡単に直せるものではない。

情報や仮説を訂正する時に、相手の安心のかたちに踏み込まないことが重要だと思う。政府を批判することで安心する人もいれば、政府を支援することで安心する人もいる。科学と同一化して安心する人もいれば、科学が代弁する人との絆を感じて安心する人もいる。

安心のかたちはみんな違う。

間違った情報は訂正すべきだし、政策は議論すべきだし、多数の人の行動を変えなければいけないこともある。

これらの目的のために、他人の安心のかたちを変えるのはやめよう。他人の安心のかたちは、組織における「隠蔽課」のように、その存在そのものを見せたくない心の中の働きにつながっていて、必ず、多くのもっと厄介な問題を引き起こす。少なくとも緊急時にやることではない。

そして、他人の情報や行動は、そこに触れなくても変えられるはずだ。自分の中の「隠蔽課」と先に直面すればいいのだ。

ヒトに関するグラフとウィルスに関するグラフの違い

世の中にはたくさんの数字とチャートがあって、みんな食傷気味というか、簡単にそういうものを信じない癖がついていると思います。

しかし、コロナに関する数字やチャートは、ちょっと違うんじゃないかな、という話をしたいと思います。

もう忘れられてるかもしれないけど、100日ワニ騒動というのがあって、あれは突然爆発的に話題になって、あっという間にしぼんでしまいました。あれに関するグッズの売上が、コロナのグラフみたいにグイーンと右肩上がりになる期待を持っていた人は、今頃、ガックリしているでしょう。

だいたい、右肩上がりのグラフはみんなあんなもので、あてにならない、やってみなきゃわからないと思ってて、コロナも同じだろう、と思ってしまうのも無理はないかもしれません。

でも、コロナと100日ワニには、大きな違いがあって、それは、ヒトはミクロのふるまいが流行り具合によって変わるということです。つまり、ステマ騒動とかそういうの無くても、誰もが「ワニ」「ワニ」と言い出したら、「まだワニかよ」と言われるのが気になりますよね。ヒトのミクロのふるまいは、マクロの結果、つまり「みんながワニを読んでるか」ということに大きく影響を受けるんです。

ワニが流行る前の人のふるまいは、ある程度予想できます。つまり、それはワニのコンテンツそのものが持つ力。100人にこれを読ませれば、何人が感動して、そのうち何人が友達に紹介するか、その割合は、たぶん、そんなに大きく変動しない。だから、流行り始めた時点で、Twitterでその様子を見ていれば、「これは相当流行るぞ」ということは予想できるし、アンケートとかモデルとか使って、最終的に何十万人がグッズを買いそうかなんてことも予測できるのかもしれません。

でも、人のふるまいは他の人のふるまいによって影響を受ける。「みんなが読んでるから自分も遅れないようにしよう」という人もいれば、逆に「まだワニかよだせーな」という人もいて、影響の受け方はそれぞれだけど、流行る前と後ではふるまいが違います。

ステマ騒動は、流行りきった所で起きたので影響力が大きかったし、逆にあの対応の仕方によっては好感度を上げて、さらなる飛躍のステップとすることも可能だったかもしれません。

だから、社会現象のモデル化は、本質的にミクロとマクロの相互作用が含まれていて、とても不安定なんです。

そういうモデルから導き出された数字やチャートは信じないっていうのは、生活の知恵として正しい。

しかし、ウィルスのふるまいは、マクロの影響を受けません。「このビッグウェーブに乗って、俺もいよいよ感染の旅に出るか」なんてウィルスはいない。ウィルスは、飛沫感染でも接触感染でも、条件が満たされれば感染するし、満たされなければ感染しない。「ウィルスは忖度しない」と言われますが、それより大事なことは「ウィルスは空気を読まない」ということです。

ミクロのふるまいが一定なので、モデル化しやすく、感染者が10人でも1000万人でも同じモデルが使えます。

今回の騒動で、日本政府やクラスター対策班に批判的な意見をだいぶ見ましたが、SIRモデルそのものを批判している人はほとんどいません。専門家会議も批判者も同じ数学のモデルを使っていて、その当てはめ方やそこから導き出す対策には大いに異論が出ていますが、モデルそのものは両者で合意されています。

議論になっているのは主としてヒトのふるまいの問題で、それはウィルスにとっては環境で、環境によってウィルスのふるまいは確かに変わるけど、同じ環境であればウィルスのミクロのふるまいは一定で、マクロの結果、つまり感染者数や死亡者数は、予測や推計が容易であるということには異論はありません。

政治家は右肩上がりのチャートを見て、「行くとこまで行ったら、それはそれでなんとかなるだろ」みたいに考えがちなのだと思います。ステマ騒動がワニ熱を一気に覚ましてしまったように、感染が拡大して、混乱が起きて、世の中が大騒ぎになったら、マクロな対応でミクロのふるまいを変える手段がある、と無意識に想定してしまうのだと思います。

まあ、ヒトのふるまいについては、政治家やビジネスマンの方が正しいと思います。

でも、感染症の広がりについては、ヒトのふるまいよりもウィルスのふるまいの方が重要です。ウィルスはどれだけ感染が広がってもミクロのふるまいを変えない、チャートどおりに上がっていく。このグラフは、ワニとは違う見方をしないといけません。

逆に言えば、ウィルスは台風や地震などの天災と比べると、数学で扱いやすいんです。

モデルが悲劇的な予測をした時、それは結構当たる。8割おじさんが「7割では絶対ダメ」というのは、信じられないくらい絶対的な話なんです。「何が8割なのか」「どういう8割がいいのか」というとこは間違ってるかもしれないし、議論の余地があるけど、「7割では絶対ダメ」というとこには議論の余地がないんです。

ーー ついにタレントの指原莉乃さんにも応援メッセージをもらえましたね。

いつか流行が終わったら、会えないかなという妄想を抱いています(笑)。

8割おじさんが早くさっしーに会えるように、みんな数字をそのまま受け止めて、#StayHomeしましょう。

デコイの達人としての安倍総理

何か悪いことがあると、必ず「背後に誰かの邪悪な意図がある」と考える人がいるようだ。

たとえば、トイレットペーパーがなくなるのは「転売屋の邪悪な意図」のせい、PCR検査が受けられないのは「オリンピックの利権に関わる人の、感染者を少なく見せようとする邪悪な意図」のせい。

私は、ほとんど全てのことをシステムの不備と考える。

トイレットペーパーがなくなるのは、「過度に最適化されたサプライチェーンの不備」のせい、PCR検査が受けられないのは「限りあるリソースを有効活用するための必然」

この「党派性重視タイプ」と「システム重視タイプ」の分断は、いろいろなところで見られるが、安倍政権を批判する人にも二種類いる。

「党派性重視タイプ」は「なぜあんな邪悪なリーダーが長い間トップにいられるのかわからない」と言う。そして、この問題の背後にも必ず誰かの邪悪な意図があるに違いない」と考える。邪悪な政権が支持率を落とさないことも「アベの邪悪な意図のせい」と説明しようとする。

「システム重視タイプ」は「安倍政権が問題をどういうモデルで捉えているかが見えない」と言う。私もどちらかというとこのタイプで、何をどう解決しようとしているのか見えない。「反対」というより「論評しようがない」と感じてしまう。

ところが、新型肺炎の騒動を見ているうちに、安倍政権をシステムとして見る手がかりが見えてきた。

世の中の多数派は「党派性重視タイプ」だと思うが、安倍総理はこのタイプの人から見てわかりやすい人なのだと思う。特に、マスコミやワイドショーの人から見ると、「邪悪な意図」が見えやすいというかわかりやすい。だから叩きやすい。彼らにとって政権批判は、最終的にトップの人格批判、隠された「意図」の批判に帰着しないと中途半端で、システム的な問題を指摘するだけで終わる批判は無責任なのだと思う。その最終的な問題に持っていきやすい総理であることが長期政権の秘密なのだ。

現代の政治問題は、ほとんどが党派的な見方では解決できない問題なので、そのような批判は建設的な批判にはならない。

しかし、世論の大半は、党派的な観点からの批判を期待する。だから、そのような批判は無くなることはない。

安倍総理の機能は、そのような党派的な批判に対して、デコイとなることだ。ここにおいて、彼は天才的なのである。安倍総理が前面に立つと、党派的な批判のボルテージが上がり、みんな夢中になってしまう。その隙に、実務者が仕事をするというのが、安倍政権のやり方なのだ。

だから、問題ごとの実務者のレベルによって、政策の良し悪しに大きくブレがある。でもシステムはいつも同じだ。

「全国の学校に休校を要請」とか「中国、韓国からの入国を制限」という政策は、デコイとしては優れていると思う。デコイの役割は敵の砲火を呼び込むことと、攻撃を受けても倒れないことである。

第一次安倍政権の失敗を通じて、彼は、本能的に、攻撃を呼び込みやすいけど致命傷は負わないというデコイの役割に何が必要か理解したのである。

そして、このシステムは、今回についてはうまく機能していると思う。安倍総理の政策は支離滅裂だが、厚生労働省のやることは首尾一貫していてわかりやすい。

厚生労働省と専門家会議は、水際対策というものは基本的に効果のないもので、本来、2月中にもっと感染が広がっているはずだと考えた。その広がりは重症者の数だけ追っていても、もっとわかりやすい悲劇的な数字として、見えてくるはずのものだ。

しかし、そのような数字にはならなかった。では、新型コロナウィルス の感染率は低いのか?

偶発的に捕まえた手がかりから積極的疫学調査を行うと、どうも単純に低いとも言えない。ごく一部で多数の人に感染しているケースがある。これが一つや二つではない。

これを説明できるモデルは「再生産数の分散が大きい」ということになる。つまり、ツィッターと同じように、ごく一部のインフルエンサーのツィートは多くの人に読まれるが、ほとんどのツィートは誰にも読まれずに消える、というモデルだ。

大事なことは、このモデルを選択した理由は、誰かの邪悪な意図とか邪悪な意図を隠すためではないということだ。これがいろいろな事象を矛盾なく説明できるモデルだから、これが選択された。何が感染するきっかけになるかはまだ解明されていないが、再生産数の分散が大きいということはほぼ確定した事実と言っていいのだと思う。

そして、ここがまたわかりにくいのだが、このモデルの帰結は、ゼロと1000万人の両極端である。

現在、市中感染は広まっており、検査できて見えている感染者数が全てだとは思ってない。しかし、今はまだ対策できる範囲で、丹念に感染者を見つけていけば、封じ込めも可能なレベルである。

しかし、クラスター感染を放置すれば、すぐに何十万人、何百万人、何千万人のレベルになる。

両方の可能性を、どちらも十分あり得る未来と見ているのである。

ほとんどの人は、このような説明には納得できず、どちらかが「邪悪な意図を隠した」ウソだと思うのだろう。厚生労働省自身が矢面に立ったり、安倍総理がそのストーリーに乗っかってリーダーシップを取れば、党派的な集中攻撃がそこにやってくる。数理的なモデルを使った説明では、それに対抗できないだろう。

しかし、専門家は、どちらの可能性も真面目に考えているのだ。その前提で仕事をするには、デコイが必要なのである。

このように、「デコイとしての安倍総理」と「分散の大きい再生産数」という二つのキーを理解すると、厚生労働省と専門家会議は、首尾一貫して明解な説明をしていることがわかると思う。

デコイの達人としての安倍総理

何か悪いことがあると、必ず「背後に誰かの邪悪な意図がある」と考える人がいるようだ。

たとえば、トイレットペーパーがなくなるのは「転売屋の邪悪な意図」のせい、PCR検査が受けられないのは「オリンピックの利権に関わる人の、感染者を少なく見せようとする邪悪な意図」のせい。

私は、ほとんど全てのことをシステムの不備と考える。

トイレットペーパーがなくなるのは、「過度に最適化されたサプライチェーンの不備」のせい、PCR検査が受けられないのは「ウィルスの属性の違いに対応できない検査システムの不備」のせい。

この「党派性重視タイプ」と「システム重視タイプ」の分断は、いろいろなところで見られるが、安倍政権を批判する人にも二種類いる。

「党派性重視タイプ」は「なぜあんな邪悪なリーダーが長い間トップにいられるのかわからない」と言う。そして、この問題の背後にも必ず誰かの邪悪な意図があるに違いない」と考える。邪悪な政権が支持率を落とさないことも「アベの邪悪な意図のせい」と説明しようとする。

「システム重視タイプ」は「安倍政権が問題をどういうモデルで捉えているかが見えない」と言う。私もどちらかというとこのタイプで、何をどう解決しようとしているのか見えない。「反対」というより「論評しようがない」と感じてしまう。

ところが、新型肺炎の騒動を見ているうちに、安倍政権をシステムとして見る手がかりが見えてきた。

世の中の多数派は「党派性重視タイプ」だと思うが、安倍総理はこのタイプの人から見てわかりやすい人なのだと思う。特に、マスコミやワイドショーの人から見ると、「邪悪な意図」が見えやすいというかわかりやすい。だから叩きやすい。彼らにとって政権批判は、最終的にトップの人格批判、隠された「意図」の批判に帰着しないと中途半端で、システム的な問題を指摘するだけで終わる批判は無責任なのだと思う。その最終的な問題に持っていきやすい総理であることが長期政権の秘密なのだ。

現代の政治問題は、ほとんどが党派的な見方では解決できない問題なので、そのような批判は建設的な批判にはならない。

しかし、世論の大半は、党派的な観点からの批判を期待する。だから、そのような批判は無くなることはない。

安倍総理の機能は、そのような党派的な批判に対して、デコイとなることだ。ここにおいて、彼は天才的なのである。安倍総理が前面に立つと、党派的な批判のボルテージが上がり、みんな夢中になってしまう。その隙に、実務者が仕事をするというのが、安倍政権のやり方なのだ。

「全国の学校に休校を要請」とか「中国、韓国からの入国を制限」という政策は、デコイとしては優れていると思う。デコイの役割は敵の砲火を呼び込むことと、攻撃を受けても倒れないことである。

第一次安倍政権の失敗を通じて、彼は、本能的に、攻撃を呼び込みやすいけど致命傷は負わないというデコイの役割に何が必要か理解したのである。

そして、このシステムは、今回についてはうまく機能していると思う。安倍総理の政策は支離滅裂だが、厚生労働省のやることは首尾一貫していてわかりやすい。

厚生労働省と専門家会議は、水際対策というものは基本的に効果のないもので、本来、2月中にもっと感染が広がっているはずだと考えた。その広がりは重症者の数だけ追っていても、もっとわかりやすい悲劇的な数字として、見えてくるはずのものだ。

しかし、そのような数字にはならなかった。では、新型コロナウィルス の感染率は低いのか?

偶発的に捕まえた手がかりから積極的疫学調査を行うと、どうも単純に低いとも言えない。ごく一部で多数の人に感染しているケースがある。これが一つや二つではない。

これを説明できるモデルは「再生産数の分散が大きい」ということになる。つまり、ツィッターと同じように、ごく一部のインフルエンサーのツィートは多くの人に読まれるが、ほとんどのツィートは誰にも読まれずに消える、というモデルだ。

大事なことは、このモデルを選択した理由は、誰かの邪悪な意図とか邪悪な意図を隠すためではないということだ。これがいろいろな事象を矛盾なく説明できるモデルだから、これが選択された。何が感染するきっかけになるかはまだ解明されていないが、再生産数の分散が大きいということはほぼ確定した事実と言っていいのだと思う。

そして、ここがまたわかりにくいのだが、このモデルの帰結は、ゼロと1000万人の両極端である。

現在、市中感染は広まっており、検査できて見えている感染者数が全てだとは思ってない。しかし、今はまだ対策できる範囲で、丹念に感染者を見つけていけば、封じ込めも可能なレベルである。

しかし、クラスター感染を放置すれば、すぐに何十万人、何百万人、何千万人のレベルになる。

両方の可能性を、どちらも十分あり得る未来と見ているのである。

ほとんどの人は、このような説明には納得できず、どちらかが「邪悪な意図を隠した」ウソだと思うのだろう。厚生労働省自身が矢面に立ったり、安倍総理がそのストーリーに乗っかってリーダーシップを取れば、党派的な集中攻撃がそこにやってくる。数理的なモデルを使った説明では、それに対抗できないだろう。

しかし、専門家は、どちらの可能性も真面目に考えているのだ。その前提で仕事をするには、デコイが必要なのである。

このように、「デコイとしての安倍総理」と「分散の大きい再生産数」という二つのキーを理解すると、厚生労働省と専門家会議は、首尾一貫して明解な説明をしていることがわかると思う。

旧型コロナの風邪でもみんな同時にひいたら大変なことだよ

新型コロナウィルスについて、最初の頃テレビでは「風邪と同じだから過剰に心配しないで」と言っていて、一方で、武漢の大変な状況や中国の都市封鎖のニュースが伝わってきて、一体どっちが本当なんだ!と思っている人が多いだろう。

二種類のメッセージが両立しないので、楽観からパニックへ極端に振れたりして、必要以上の混乱が生じているようだ。

これをバランスよく理解するコツは、「抗体」の有無に注目することだと私は思う。

つまり、新型コロナと風邪の違いで一番大事なことは、感染率とか重症化率とか死亡率とかそういう難しい話ではなくて、単にみんな一緒にひくか、バラけてひくかという違いだ。

風邪でもインフルエンザでも、これまで流行ったものは、抗体を持っている人がたくさんいる。ウィルスは少しづつ変異するので、二度でも三度でもひくことはあるけど、旧型ウィルスでは、何もしなくてもうつされることのない人が一定の割合で存在している。

ちょっとした大企業なら、毎日数人風邪で休む人はいるだろうし、小さなオフィスでも、一月の間、全社員が皆勤で誰も休まないということはないだろう。社会はそれくらいの風邪ではびくともしないようにできている。

でも、全員が同じ日に休んだらパニックで、会社は回らないよね。

もし、全人類の体内から旧型コロナの抗体が突然消え去って、風邪が異常にうつりやすくなって、しかもうつったらみんな結構重めで数日寝込むとしたら、会社としては本気で「毎日熱をはかって、熱があるやつは絶対に会社に来るな!」と言うだろう。

無理して出社する奴が一人でもいたら、即、全社員にうつるなんてことになったら、どの会社も自発的に門の前に警備員を配置して警戒するだろう。誰も抗体を持たないというのはそういうことで、単に自分が寝込むという問題ではなくて、何人もの人にうつしてそれがどんどん連鎖していく。

それがこれから起こることなんだと思う。

でも会社はまあいいよね。そういうバカは全員クビでいいんだから。病院は「来るな!」と言えないのでもっと大変。

誰もが抗体を持たない風邪は、もしそれが何を意味するのかをきちんと理解できるならば、相当深刻な問題であると理解して先手を打って対処するのが当然だ。

もちろん、新型と旧型は違っていて、その違いはこれから少しづつ明らかになるだろう。でもそういう新しい情報を受け入れるベースとして、「誰でも100%うつされるけどそれ以外の症状は普通の風邪」という見方を持っていれば、問題を理解しやすいのではないだろうか。

ウィルスは忖度しないモノと見るべきだけど人間の社会脳も同じようにモノとして見るべき

社会脳仮説とは、人間の脳のチップ面積の半分は対人関係処理専用プロセッサが占めているという話だ。

「大型クルーズ船における新規感染症の対策について」という論文があって、「法的な強制力の適用条件」とか「船内特有のゾーニングの困難さとその対処」なんていう目次があったとしても誰も読まない。でも「岩田 VS 高山、インチキ野郎はどっちだ」という話になると大変な注目を集める。

注目を集めるだけではなくて、やりとりを見ているうちに、問題の構造を多くの人が普通より理解し始める。

カードの数当てゲームみたいな問題を、数学的な複雑性や構造をそのままにして「チートしているのはこの4人のうちの誰でしょう?」という問題にすると、正答率が有意に上がるという研究があるそうだ。

人間は、モノの論理を考えるより、対人関係の中の問題を解く方がずっと得意なのである。

これは歴史が古く、人間が猿だった頃からそうだった。そもそも、100万年前に猿の脳が大きくなって人間になったのだけど、その時分には脳が大きくなるメリットはほとんどなかった。脳が大きくなると頭の大きい子供を未熟なまま産むしかなくなるので、種の生存にとっては大変なコストになる。ライオンの習性をちょっと早く学習したり、木の実の種類を少し余計に知ってるくらいのことでは、とてもペイしない。

だから、何でそこで脳が大きくなってしかも生き残ったのかは大きな謎だったそうだが、どうもこれは、集団で石投げをして天敵や獲物を倒すということができるようになるためだったらしい。チームプレイができれば、石投げは強力な武器で、何も怖くなくなる。気候変動でジャングルから草原に投げ出されて大変なピンチになった我々の祖先は、チームプレイを覚えて、突然、天敵を恐れる必要のない強者になった。

この時に、チームを大きくすることと、チートする奴を排除することが必要で、これには相当大きな専用プロセッサが必要だったのだ。言語を使うことはもちろん、相手の視線の向きや意図を理解したり、チート野郎の行動を時系列に沿って覚えることなどには、脳の負担が大きくそれ向きの専用プロセッサがないと処理できないレベルらしい。

我々の学問は、この専用プロセッサを本来の用途と違う使い方をすることで出来上がっている。だからみんな数学が苦手だし、フェイクニュースがなくならない。フェイクニュースがもし100万年前にあれば、我々の祖先もみんなそれに乗せられていたのだ。

これは、定説とは言えないが、それなりのエビデンスも集まってきてるそうだ。

借金の証文に「もし払えなかったらみんなの前で恥をかかされてもいいです」というのがあるそうだが、チームを追い出されることはライオンに対峙するよりずっと命の危険があるというのは、人間の脳のバグではなくて、少なくとも我々の祖先にとっては現実であり、我々の脳は100万年かけて、それを恐れるように進化してきたのだ。

そこで、これから岩田さんの立場になる人への提言なのだけど、高山さんのような人をサイエンスの外から発言する人と見るのではなく、社会脳学という別のジャンルの専門家として見るべきなのではないだろうか。

つまり、これはサイエンスと組織運営の対立ではなく、感染症学と社会脳学という二つの学問分野の専門家による立場の違いであると。

政治家や官僚の人は、「社会脳」という分野におけるスペシャリストで、もちろんきちんとした理論的なバックボーンは持ってないけど、長年の経験でその分野に高い知見を持っている人である。彼らの肩書きがそのエビデンスであると言ってもいいと思う。

そして、感染症学と臨床医学だったら、危険性の高い検疫の場では、感染症学が上に立つべきなのと同じように、感染症学と社会脳学だったら、多くの場合、社会脳学が上に立つというかグランドデザインをすべきなのはこっちだと思う。

ただ、その人の社会脳学の適用範囲は見極めるべきだろう。

クルーズ船の対応にあたる組織だけに着目して、多くの制約がある中でこれをどう動かせば最善の結果が残せるか、という観点は、完全に高山氏の専攻分野で、問題をこのレベルで考えるならば、岩田氏が高山氏のストーリーに乗って、しばらく大人しくしてから高山氏がゴーを出したタイミングで暴れまくるのが最善だ。

でも、日本全体の問題と考えると、DMATの関係者、つまり志が高く機動力のある医療の専門家を汚染のリスクにさらすのは問題だと私は思う。つまり、士気を下げて船内の活動の妨げになっても、医療関係者を守るべきだったと思う。ただ、これは「ウィルスは忖度しないからモノの論理、サイエンスの論理を優先すべきだ」という意味ではない。社会脳学的観点からのリスクより感染症学的観点からのリスクに重点を置くべきということ。

これは単なる素人考えだけど、サイエンスとそれ以外の対立ではなく、我々が社会脳を持ち社会脳に動かされる存在であることも外的な事象として受け取った上で、ウィルスと社会脳という二つの動かせない現実に対していると考えて、その両者の専門家が協力して対策を考えなくてはいけないと、そういう枠組みで考えた方がいいのではないだろうか。