7payは不正利用報告をクレーマーのようにとらえているのでは?

7payの撤退の会見について、その素早い損切りの決断を大局的な損害の極小化という意味で評価する意見をいくつか目にした。同意できる部分もあるが、不正利用の原因をリスト攻撃だと強弁するところなど、どうにも違和感を感じる部分も多い。この違和感は、エンジニアの多くが感じているもののようだが、それは最後まで解消されないまま終わりそうだ。

これについて、「7payの関係者の多くは不正利用の報告をクレーマーに対応する方法論で処理している」と考えると説明しやすいのではないかと思った。

新しい商品やサービスに対して、消費者から多くのクレームが同時に上がったら、無視していいものではない。むしろ、改良のための貴重な情報源として生かすべきだ。そのためには、クレームを分類して、同じような指摘が多く上がっているところから、対応していく。ここまでは、クレーム処理も不正利用報告も同じだろう。

不正利用の被害を分析していくと、多くがリスト攻撃の被害だという主張は、信じてよいと思う。割合や被害金額から見て、パスワードを使いまわして、チャージ用パスワードにも同じパスワードを使い、単純なリスト攻撃でチャージから不正購入までされてしまった人が、それくらいいてもおかしくない。

ここまでの分析は正しいし、セブンイレブングループが、それを今後の教訓として活かしていける可能性は高いと思う。

問題は、この分類に当てはまらない、特異な報告をどう扱うかだ。特異な不正報告は特異なクレームと全く違う対応をすべきだ。

特異なクレームというのは、一般の人なら「まあ、それでいいよ」というところで怒りがおさまらず、しつこくしつこく同じことを言い張って譲らない人とか、虫が入るわけのない食品に虫が入ったと言う人とか、いわゆるヘビークレーマーになるだろう。

こういう人の主張をいくらしっかり聞いても、それが商品やサービスの開発に役立つヒントになるとは思えない。そういうクレーマーが来たら、だんだんと専門性の高い人にエスカレーションしていって、最後に警察や弁護士にというシステムを整備する必要はあるだろうが、会社としてちゃんと話を聞く必要はない。

しかし、不正報告では、逆に、他の人にはあり得ない現象を報告している人や、登録やチャージの操作をきちんと記録して「絶対自分の落ち度ではない」と言い張る人、特異な報告は、貴重な情報源だ。ツイッターなどで見ると、そういう信頼性の高い特異な報告がいくつかある。

ここで、特異な報告の扱い方として、人間の集団心理に対するロジックとコンピュータに対するロジックは、正反対の対応を要求する。

特異なヘビークレーマーは、放置しても、そのクレーム内容が他の普通のユーザに伝染することはない。もちろん、対応がよくなければSNSで炎上というのはあり得るが、その時にどちらがおかしいかは、一般常識で判定される。

特異な不正報告は、未発見の脆弱性から生まれている可能性があり、その場合、この脆弱性が発見されたら、それが突如何千、何万という被害に拡大することはあり得る。というか、プロの犯罪者は、そういう報告を集めて、情報を精査し、実験を繰り返しているだろう。

それが、他のユーザに適用可能かどうかは、人間の一般常識ではなくて、コンピュータのロジックで判定されるべきことになる。

未発見の脆弱性は、脆弱性である限り、どういう種類の被害につながるか予測できない。だから、特異な不正利用の報告は件数が少なくても、論理的に信頼性を評価した上で、徹底的に原因を追求して、エンジニアやセキュリティの専門家が納得できるような調査報告をすべきだと思う。

私は、こういうコンピュータ独特の論理と企業活動の関連を、「巨大で硬質な外部性を組織の内部に抱えこむ」(ドロドロなIT - アンカテ)と表現したことがある。思いつきでとっさに出てきた表現だけど、自分としては、なかなか気に入っている。

もうちょっと簡単に言うと、想像を超えたコミュ障の理系オタクの部下をかかえた上司のような対応。

私は、たぶんまわりからは、コミュ障のオタクと思われていると思うが、そういう人間でも最低限の空気は読む。普段ヘラヘラした上司が顔色を変えて「いいか、これは、今月中に終わらせるんだぞ。大変なことになるからな」とか言っていたり、普段目にしないようなエライ人が入れ替わり立ち代わりプロジェクトルームに出入りしていれば、「ああこれはやばいかも」というのは感じ取る。

確信はなくても、「不具合は全部対処したので、もう完璧です」と、そのエライ人の前では言っておくくらいのことはできる。

でも、コンピュータというのは、そういう配慮は一切なしで、書いた通りにしか動かない。今日はエライ人に最終報告する中で実際に画面を動かしてプレゼンするから、なんとか今日だけでいいから動いてくれとか、コンピュータにお願いしても、バグがあってそのバグの再現条件を踏めば、情け容赦なくエライ人の眼前でプログラムは落ちる。書いた通りにしか動かない。

自分は、コミュ障かもしれないけど、こいつよりは全然マシだと思うのです、そういう時いつも(実体験×3)

だから、 どうせ口を塞げないのなら「王様の耳はロバの耳」と先に言わせる、いっそのこと毎週定期的に言わせることにするという発想がアジャイルという奴で、「巨大で硬質な外部性」を組織に取り込むには必須だと私は思うのだが、それ以前の問題として、人間の集団を率いて、顧客という別の人間の集団に立ち向かうリーダーとして優れている人が、むしろ危ういのは、やはり「巨大で硬質な外部性」の口を塞ぐ方に組織が一丸となって頑張ってしまうからだと思う。

確信はないけど、「未発見の脆弱性があるので、その調査が終わるまで7payだけでなく7iD関連いったん全部止めましょう」がこの場合の正論である可能性がある。素早い撤退の決断は、おそらく「omni7だけは守り抜こう」という方向で組織全体にカツをいれたと思うのだけど、その空気の中でこの正論を言わなきゃいけない立場に自分が置かれたら、と想像すると、自分にとってはどんな悪夢よりも怖い。

7pay経営陣がモノを知らないことより聞く耳を持たないことの方が深刻な問題

でも、これは説得の方法はある。

流通業にコンピュータを売り込むことの一番の問題は、製造業と違って、投資という概念がないことだ。本業が日銭と値切りと他社を出し抜くことで成り立っているから、やりにくい相手であるのは間違いない。

ただ、流通業は客の動向には敏感だ。客は結局コスパで動くと思っている。

だから、犯罪者集団も客と同じようにコスパで動くと説得すればいい。実際、セキュリティとは、犯罪者から見て、自社がコスパの悪い対象であると納得させることだ。

安売りと同じ原理で、1円とか2円で売る必要はなくて、他の店より少しでも安くなれば、客はみんなこっちに来る。それと同じように、他のサイトに穴がなくて、こっちに穴があれば、みんなこっちに来る。両方に穴が開いていれば、より簡単な穴の方を狙ってみんなこっちに来る。

価格が99円対100円だった時に、売上が99対100の比率になるのではなく、ほとんどの客が99円の方に殺到する。それと同じように、犯罪者は一番簡単にハックできそうなサイトに殺到するのだ。

だから、ガイドラインを遵守することが重要なんです。我流でやってるサイトは、いつも安売りしてる店と同じで、「ここに来ればなんかいい穴がありそうな気がする」と思われてしまう。

結局、客も犯罪者もコスパで動くマシーンみたいなものだから、扱い方は同じじゃないかな。

でも、弁当のコスパが急に悪くなってるとこから見て、客の扱い方も忘れてしまったんじゃないかなという気がしないでもなくて、そうだとしたらお手上げです。

毎日野菜を摂取するようにいいニュースを継続的に摂取

私は、なるべく野菜の多く入ったメニューを意識的に選ぶようにしているのだが、それと同じような感覚で、毎日、Enlightenment Nowという本を少しづつ読んでいる。

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress

これは、まだ日本語訳は出てないが、このブログに、章ごとの詳細な要約がある。

B073TJBYTB の検索結果 - shorebird 進化心理学中心の書評など

「ファクトフルネス」と似たような本だが、もっと厚くて「どう言う観点から見ても世界は良くなっている」としつこくしつこく言い続けてる本だ。

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

「ファクトフルネス」は、この伝わりにくいメッセージをどう伝えたらいいか誠実に考え抜いて練りに練ったもので、読者を自分の仲間にしていこうという優しさを感じるが、スティーブン・ピンカーは、なんだかちょっとキレ気味で、読者は論争相手だと思っているみたいだ。宮本武蔵が寝てる時に刺客に襲われても軽々やっつけてしまうように、ピンカーはいつ何時どこから反論されても、即論破して相手には情けをかけず一刀両断する。その分だけ、常に油断なくデータから実証的かつ多面的に論じていて、ぶ厚い本になっている。自分の目的にはこちらの方があっている。

「野菜は年に一度だけ食べません」とか言ったら、来年の健康診断の時に、栄養士さんに栄養指導の時に、相当怒られると思う。私は、数年前から健康診断の時に「栄養指導」といって、栄養士さんの面接を受けて、一週間分の食事のメニューをチェックされているのだが、ラーメンとか甘いものが多いとネチネチとしつこく注意を受けてしまう。

「それが好きだから」と言ってももちろん許してくれなくて、「あなたの体のために、少しだけ我慢して、なるべく野菜の多い定食とかを選びましょう」と言われる。言い方は丁寧だけど、有無も言わせぬ圧迫感で言われるので、この指導の時間が苦手だ。

感情的には納得できてないのだけど、この指導が必要なことはわかっている。自分の体は狩猟採集で10万年生き抜いた原始人のDNAからできていて、甘いものや油物がめったに手に入らない環境に最適化されている。だから、本能は「そういうものは全て摂取せよ」と命じるのだけど、現代の生活ではそういうものがいくらでも手に入るので、その本能を押さえて行動を変えなくてはいけないのだ。

「ファクトフルネスを一冊読んだら、当分その手の本を読みません」というのはダメだと思う。「Enlightment Now」はぶ厚いし、英語なので、1日数ページしか読めない。そこが自分にはちょうどよくて、毎日、毎日少しづつ読む。

自分の頭は、部族の中で10万年生き抜いた原始人のDNAからできていて、悪いニュースがめったに手に入らない環境に最適化されている。だから、本能は「そういうものは全て摂取せよ」と命じるので毎日毎日はてなブックマークツイッターを読んでしまうんだけど、その本能を押さえて行動を変えなくてはいけないのだ。

「Enlightment Now」には、各章にグラフが二、三個あって、もちろん全部データの出所が明らかになっている。グワーンと右肩上がりになるやつと、ふらふらしつつも長い目で見るとジワジワ下がってるやつかどちらかで、どのグラフも執拗に世の中が平和で安全になっていることを示している。こういう話はなかなか頭に入ってこないので、一年くらいかけて読み終えたら、もう一周しようかなと思っている。

ファクトチェックというより、必要なのは栄養指導だ。原始時代に、何かが毎年少しづつ良くなって、30年くらいで複利計算して倍増とか数十倍なんていうものはなかった。だから、そういう変化を見れないように人類ができているのは、よく考えてみれば当たり前のことだ。テロや通り魔や航空機事故は、「その辺にライオンがうろついている」という情報と相似形で、油物や甘いものと同じように我々をひきつけるし、摂取されたら長く人体の中に蓄積する。

でも、実際に今世の中を動かしているのはいいニュースで、「世の中は少しづつ少しづつよくなっていて長い目でふりかえって見るとその蓄積は相当なものだ」系の情報を基盤として考えることが、功利的にも実存的にも絶対必要だと思う。もちろんなにごともバランスは重要だが、今時、悪いニュースに不足するなんて心配はまず無用だろう。

21世紀には暴力のない「死」をイマジンしたい

「イマジンが20世紀を代表しているような意味で、21世紀を代表できる音楽」というのは面白い問いかけだと思って、少し考えてみたら、これを思い出した。

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この短いクリップの中で、コムアイはなんども「死と再生」を繰り返すのだけど、その「死」に少しも暴力の香りがなくて、エネルギーだけがあるのが新鮮で21世紀的だと思う。

そして、この音楽の中で、テクノロジーと自然が見事に融合している。

「融合」というのは、境界を壊すことだから、いかなるかたちでもいつも暴力的で、それは僕たちが境界を守ろうとしているからだ。境界を守ることが「生」であって、その努力を粉砕するのが「融合」であり、国境のない世界だ。「イマジン」が暴力的な言葉を喚起するのは、だから必然かもしれない。

しかし、「屋久の日月節(やくのじつげつぶし)」のミュージックビデオの中には、それがない。コムアイは菩薩顔で大地に溶け出し、またよみがえり、蘇るとまたすぐ死ぬ。すぐ死ぬことが重要で、「死」が次の「生」のタネにしかならないのは、暴力的だと思う。そういうのではなくて、「生」と対等の関係にある「死」が描かれている。

テクノロジーがそういう「死」に対して中立的であり、そういうタイプの「死」を表現するために使えるというのが、驚きだった。境界を守ろうとしてない人たちにとっては、テクノロジーはそういうもので、中立的なのだろう。そこに21世紀の可能性があるのだと思う。

Webの次はすでにいつでもそこにある

Webが死につつあると最近よく聞くようになってそうかもしれないと思いかけたが、IPFSを知って考え直した。

と言っても、IPFSがHTTPを置き換える未来を確信した訳ではない。ホワイトペイパーを眺めてみて、「最近は革命もお手軽にできるようになったもんだな」と思ったからだ。

IPFSの構想は壮大だが、その技術はすでによく使われているものの使い回しだ。DHTベースのP2P, BitTorrentベースのファイル転送、gitとほぼ同じデータ構造の組み合わせで、Filecoinという仮想通貨ベースのシステムで、データの永続性のためのインセンティブを与えるということらしい。

実装に使われたGo言語も含めて、全てしっかり実証された技術だけを使っているので、これはうまくいくだろうと思った。

しかし、たとえば、公開鍵暗号とか表計算のような、本物の天才のヒラメキは感じない。誰でも思いつきそうだし、ちょっと腕のある人なら誰でも実装できそうなものだ。この組み合わせがうまくいくなら、これを作った人は天才と呼んでもいいかもしれないが、公開鍵暗号の発明が数十年に一人の天才だとしたら、こちらは、一年に一人とも言えなくて、一年に10人くらいは、これくらいの人が出てきてもいいように思う。

でも、一年に10人くらいのレベルのそれくらいの天才の人にとって、今は、とても仕事がしやすい時代なのだと思う。DHTとBitTorrentとgitがすでにあって、その技術はソースコードレベルで公開されていて、それくらいの人なら、一瞬で自分の武器として使える。

つまり、世界は特異点を越えたのだ。特異点とは、ターミネータが人類に反逆する日のことではなくて、AIがAIを賢くする正のフィードバックがかかり始める日のことで、それと似たような意味で、過去の天才の成果物が現在の天才を支え、その現在の天才の成果が、明日の天才を超加速する、そのフィードバックが止まらなくなる日だ。

Webの未来を予測するには、衆愚の行き着く先ではなく、1年に10人くらいの天才のやることをウォッチすべきだ。数十年に一人の天才は、いつ生まれるかわからないし、何をするかわからない。でも1年に10人くらいのレベルだと、そういう人が継続的、安定的に生まれてくることは確実だ。そういう人たち同士の相互作用が、これからすごいことになって、IPFSくらいのレベルのプロジェクトを次々起こしていくというのが私の予測だ。

そういうものがどれくらい使われるようになるかは、GAFAがどれくらいEvilになるかにかかっていると思う。

GAFAが、何もしなくても今の独占的地位を保っていられると思うのが間違いだ。GAFAは、こういうIPFSのようなプロジェクトに追われているが、それに負けないくらいの勢いで革新し続けているので、今の地位を保っている。Evilになる暇はないしそれはよくわかっていると思うが、もし仮にEvilになれば、一瞬でそういう新顔に抜かれてしまうだろう。

GAFAが世界を支配しているそのすぐ下に、ダイナミックで不安定なレイヤーができていて、この層の厚みが一方的に増して行くというのが、これからの世界だ。これはプログラマだけに見えるいびつな世界観なのだと思うのだが、ご承知のようにソフトウエアは世界を飲み込むので、この世界観がスタンダードになるべきだと思う。

Webが使いづらくなったら、IPFSのような別の選択肢が注目を集め、注目を集めれば一瞬でスパークするだけの潜在的能力を持ったプロジェクトは他にもたくさんある。

そして、それらの屍をサーベイして、さらにいいものを作るであろう1年に10人レベルの天才は、今も生まれ続けている。その人たちは、IPFSの時よりもっと豊富な過去の成果をスタート地点として仕事を始めるのだ。

衆愚とGAFAだけ見ていてはWebの未来はわからない。そこに割り込んでいくる中くらいの天才の集団(の予選を勝ち抜いた人)の動きが最も重要で、むしろそれが一番重要なファクターになる特異点を越えたような気がする、というのが、IPFSを見て感じたことだ。

だから、Webがこれからおかしくなって崩壊することは充分あり得ると思っているだけど、それを待ってそこから飛び立つ人を世界はこれから必要以上に供給し続けると私は思う。それは感情的な希望的観測ではなくて、物理学の法則のようなメカニズムとして、何かが確立したような気がする。

武勇伝を忘れる勇気


オリエンタルラジオ 武勇伝

  • 「あっちゃん、渋谷まで山の手線で一本だな」
  • 「いやだ!」
  • 「じゃあ銀座線」
  • 「いやだ!」
  • 「じゃあ半蔵門線
  • 「いやだ!」
  • 「じゃあ埼京線?」
  • 「いやだつってんだろう!」
  • 「どうして!」
  • 「誰かの敷いたレールの上を走るなんてもうまっぴらなんだよ」
  • 「あっちゃんキャッコイイー!」

日本では、公的なルールというのは、誰にでも平等に適用され、誰もが真剣に守るものではなくて、常に適切なポイントより少し前に置かれる線である。

制限速度が40kmだったら、誰もが39km以下で走るわけではなく、それよりちょっと上の45kmとか50kmで走る。40kmピッタリで走ることは、どちらかと言えば顰蹙を買う行為で、悪くすれば煽り運転とかのひどい目にあう。

ルールというものはそういうもんだということを、学校の中にいる間に体で覚える。校則や先生の言うことをきちんと守る奴は、どちらかと言えば、ガリ勉キャラや風紀委員キャラとして嫌われる危険性が高い。人気があるのは、それをちょっとハミ出す「武勇伝」を持った人間だ。

この公的な制度やルールをちょっとハミ出す「武勇伝」的な感覚は、社会に出てからも必要とされる。教室で覚えるべきことは、勉強だけではなく、そういう「公的なルールを補助線として、どのくらいそこからはみ出た所に、適切なラインがあるか」感じ取る能力だ。

バカッター騒動を起こしてしまう人は、鈍感で非常識な人なのではなく、むしろ、そういう「武勇伝」的感覚が敏感で、友達の多い、ある意味では社会性のある人なのだと思う。少なくとも誰もが動画を共有して一緒に楽しむ友人を持っているからこそ、それを撮影、投稿してしまったのだろう。

もちろん、交通法規でも制限速度とは違って、たとえば、一方通行なんかを破ればすぐにトラブルを起こすし、一発アウトで取り締まられる可能性も高い。言われている通りに厳守すべきルールもあり、そうではないルールもある。本来の社会性とは、その違いを見抜くことも含まれていて、そこは欠けていると言わざるを得ない。

しかし、日本の伝統では、「やんちゃ」が行き過ぎた場合、一発アウトとなるケースは少なく、多くは偉い人の裁量によって処分が決められる。

スクリーンショット違法化という流れも、そういう伝統に戻したい人の意向が多く反映されていると思う。そういう場面の裁量権が権力の源泉だからだ。誰もがラインの少しだけ外にいて、誰を捕まえるかを裁量で決められる状態が一番都合がいい。

動画や音声が気軽に飛び交うインターネットというものは、人治主義と相性が悪い。

バカッター動画も関係者の本音としては「今回だけは大目に見てやるからもうするなよ」と一つの「武勇伝」として終わらせたい所ではないかと思うが、動画があちこちで共有されてしまったら、そういう裁量を効かせる余地がない。

やっぱりテクノロジーは、強引に世の中を変えてしまうと思うが、「ブランド」というものもその中で再考を迫られると思う。

不適切動画は、その店ではなくブランドを傷つける。みんなどことどこの不適切動画が騒動になっているか知っていると思うが、それがどこの県の何店なのか即答できる人は少ないだろう。みんな不適切動画の強烈な印象にブランド名を被せて記憶する。

今までは、ブランドが大きいほど有利だった。一つのテレビコマーシャルが全国何百件全部の店の宣伝になるからだ。

しかし、不適切動画を撲滅するのは、店の数が多いほど困難になる。どこの世界にも先生の言うことをそのまま真面目に聞かない人間が少数存在する。ブランドを持つ店の大半で適切な指導をするのは可能だが、全部というのは困難だ。先生の言うことの多くはタテマエだと学習した人間の何割かは、店長やスーパーバイザーが厳しく言ったことも同じように受け取る。これは「武勇伝」を作るチャンスだと。

「あっちゃんかっこいい」はどう見ても、あっちゃんを痛い人として笑ってもらうためだが、そういう「あっちゃん」はどこにでもいるのだろう。

むしろ、こういう事故はごく少数はどうやっても起こるもんだとして、その被害範囲を狭くする工夫をした方が現実的だと思う。つまり、ブランドを分断して、たとえば、コンビニ名がその県の中でしかないブランドだったら、その県以外の人は不適切動画を見ても笑って自分の家の近くのコンビニには気にしないで行ける。

ブランドが大きいことが有利な理由は、ほとんどマスメディア上での宣伝のためなので、SNSを使えば、同じくらいのコストや労力で小さいブランドを個別に展開していくこともできるのではないだろうか。

今一番重要な教育は、「忘れる」ことを教えることである。

不適切動画予備軍に、「SNSへの投稿は注意すること」とか「食品を必ず衛生的に扱うこと」とか説教しても意味がない。「武勇伝」という概念の危険性を教えなくてはいけない。物理的な証拠があったら裁量の効かせようがないので、法律通りに処理される。ルールを教えるのではなく、「君が学んできたルールのとらえ方を忘れなさい」と教えなくてはいけない。

とりあえず、教室という空間で長く生きた経験を持つ人は、そこで知らずに学んでいることを総点検した方がいいと思う。そこで学ぶことは無意識に学ぶことも含めて社会で役に立つものが多かった。だから、制限速度の標識から本当に走るべき速度を知るということの、数字では表現できないもっと難しいバージョンを、みんな覚えていて、しかもそれを学習したということを意識してもいない。

そういう裁量ベースのルールがすぐに消える訳ではいが、これから「裁量」が物理的証拠と対立した時どうするかの激しい葛藤があちこちで起こる。意識的でいないと思わぬところでその葛藤に巻き込まれてしまう。だから、何を覚えたかではなくて、自分が何をどこでどのように学習したか点検して、必要に応じて、それを忘れることが重要だと思う。「裁量」や「武勇伝」以外にもそういう忘れるべきものがたくさんあるだろう。

サマータイムによって組織の決断力が問われるのかもしれない

サマータイムに対応する方法は3つある。

  • なにもしない
  • うまくやる
  • きちんとやる

「きちんとやる」とは、「コンピュータが処理する全てのデータの時刻について、オフセット値を明確に定義した上で、そのデータの処理方法が適切か確認する」ということだ。

簡単に「きちんとやる」を行なうには、システム時刻、データベース、通信をUTCに統一し、画面上の入出力などでは既存の国際化ライブラリを使えばいいだろう。この考え方であれば、オフセット値がどうなるかはその項目が人の目に触れるものであるかどうかで判断できる。

全ての時刻の項目を見直すというのは、プログラマの作業量としては膨大なものになるが、個々の判断は簡単なことが多い。

「なにもしない」は、コンピュータのプログラムもシステム時刻も一切変更しないというものだ。時計に「9:00」と表示されていたら、人間がそれを見て「ああ、今7:00 か」と読みかえる。10:00 に買い物をしたら、8:00と印刷されたレシートを客に渡す。

こちらは、いちいち読み替えをするユーザの負担が大きくなるが、やれないことではないだろう。

「きちんとやる」と「なにもしない」は、作業量は大きいが不確定要素は少ない。

しかしおそらくこの二つは多くの場合、受け入れられず、たぶん、ほとんどの社長は「うまくやれ」と言うだろう。

「うまくやる」とは何かと言うと、ある部分では「きちんとやる」をして、ある部分では「なにもしない」を選択するということだ。「きちんとやる範囲はどこですか?」と聞けば社長は「それを考えるのがおまえの仕事だ」と言う。

確かに、世の中には絶対に落ちてはいけない、わずかな不整合でも許されないシステムがある。そういうシステムには「きちんとやる」しか選択肢がない。そういうシステムをリストアップすることはエンジニアの仕事だし、できるだろう。

また、すでに「きちんとやる」に近い形で構築されているシステムもある。これについては、プログラマをちょっと投入することでユーザの不便を無くせるのだから、合理的に考えて「きちんとやる」が正解になる。

しかし、そういう優先順位でやっていくと、客の目に触れるレシートの時刻が二時間ずれているのを放置することになる。これでいいのだろうか?

また、「うまくやる」の一つの手段として、コンピュータの時刻を二時間動かすという方法がある。個人のデスクにあるパソコンなどは、これでいいことも多いが、そのパソコンの中で動いているプログラムは全て「きちんとやる」の路線からはずれることになる。つまり、今動いているプログラムをいくつか使用中止にしないと、パソコンの時刻を動かすという方法はできないかもしれない。

「うまくやる」とは、会社の中にあるコンピュータを白、黒、グレーに塗り分けることで、確かにこの塗り分けを適切にやれば、最小のコストで最大の効果が得られるが、これに失敗すると、「きちんとやる」で対応すべきシステムが動かなくなる。

「うまくやる」の中にある決断は、相互に関連するものが多く、技術と業務の両面をバランスよく見た判断が必要なものが多い。上位のSEで、その会社の業務をよく知っている人が多数必要になる。

つまり「うまくやる」には、不確定性が大きいという問題があるということだ。

この「なにもしない」「うまくやる」「きちんとやる」のどれを選ぶのかという決断が、これから日本中のあらゆる組織の経営者に求められるのだ。

損切りができる経営者なら「きちんとやる」を選択するだろう。「きちんとやる」なら、当初の予想より膨らむ可能性は少ない。また、基本方針が明確なので、個別の作業(小さい決断)が相互関連することは少なく、平行して進められる。一部の遅れが他に響くことが少ない。人が足りなくなった場合、その業務や会社のことを知らなくても、国際化のライブラリの使い方さえわかっているプログラマなら誰でもいいから人員さえ追加すれば、収束できる。

つまり、損が膨らまないことを重視するなら「きちんとやる」になる。

「なにもしない」は、負担をするのはプログラマでなくユーザになることが大きく違うが、損の性質はこれと似ている。会社にある時刻は全部二時間ずれているという状態を想定して、どういうトラブルがあるか考えればいいわけで、考えやすいし事前の対策もたてやすい。レジの横に貼り紙をして「レシートの時刻は二時間ずれています。すみません」と謝ればいい。

日本でサマータイム制を絶対に導入してはいけない技術的な理由の一部:技術屋のためのドキュメント相談所:オルタナティブ・ブログで例としてあげられているジョブのネットワークなどは、「なにもしない」が正解だろう。そうすると、一部のデータが営業時間に間に合わなくて、9:00開店なのに11:00までコンピュータが動かないみたいな悲惨なことになるが、それでも、こういうのに下手に手を入れて一日中全く動かなくなるよりはましだ。

平常時でも、これのサマータイム対応を「きちんとやる」ことは難しい。まして、こういう複雑なバッチジョブのネットワークの経験がある技術者は、これから二年間確保することが非常に難しくなる。無理に獲得しても、他とかけもちでここに集中して作業できなかったり、疲弊していたりだろう。期待できる技術のレベルが相当下がることは(払うお金はふだんよりずっと高くなるのに!)折り込んでおくべきで、重要な難しいシステムほど「なにもしない」が正解になる可能性は高くなると思う。

私は、駅の表示板や電車の社内モニターの時間が二時間ずれていても絶対に怒らない。今何時でいつ次の電車が来るのか自分で簡単に計算できる。運行制御システムのトラブルで電車が止まったり衝突したりするよりは、ずっといい。そういう損切りはアリだと思う。

損切りできない経営者は、「うまくやる」を選んで、果てしなく膨らみ続けるコストを払った上に、どうしようもない混乱の二年間をすごすことになる。


最後に余談ですが、これを入れて3本のサマータイムに関する記事を書いたのですが、最初のエントリのアイディアを思いついて、頭の中で練っている時、妻に「どうしたの、なんか顔色が悪いよ。具合悪いの?」と言われました。二本目を考えている時にも同じことを言われて、

  • サマータイムのことが心配でブログに何か書こうと思ってる」
  • サマータイム?仕事に関係するの?」
  • 「いや、うちの会社はほとんど国際化してあるから、仕事には関係ないんだけど...」
  • 「じゃ、何をそんなに考えこんでるんだよ。顔色悪いなんてもんじゃないよ。ほとんど死相だよ」

うちの妻はいろいろおかしなことを言うので、あまり気にしてなかったのですが、このエントリのアイディアを思いついた時には、「今、サマータイムのこと考えてるでしょ。そうだよね、また死相が出てたよ」と当てられて驚きました。

自分では、「このアイディアで書いたらバズらないかな」とか「こんなムキになって結局中止になったらカッコ悪いな」とか思ってるんですが、エンジニアがサマータイムについて考えてると意図せずとも死相が出てしまうらしいです。