安心のかたちはみんな違う

後ろ暗いことを長年してる会社には、隠蔽を担当するチームがあるはずだが、そのチームの部署名はまず「隠蔽課」であることはない。隠蔽を長年続けるにはまず隠蔽していること自体を伏せなくてはならない。これは「隠蔽」というものの持つ普遍的な性質である。

人間のこころの中には、さまざまな隠蔽の仕組みがあるが、その中で重要なものの一つが「死の恐怖」の隠蔽である。誰でも自分がいつか死ぬことは知っているが、何かの間違いで戸愚呂弟に追い詰められるて、あの有名なセリフを言われるようなことでもなければ、そんなことは普通誰も考えない。だからと言って、単純に、自分はそんなことを感じたことも考えたこともないと思うのは、問題のある会社の社員が「ウチの組織図を見ましたけど隠蔽課なんてないですよ」と言っているようなものだ。

コロナウイルスの要求する行動変容は、みんなのこころの中で人知れず活動している「隠蔽課」を直撃する。「死の恐怖」ならびに「死の恐怖の隠蔽」の隠蔽という業務遂行において、「みんなで集まって騒ぐ」ということと「対面で絆を確認しあう」ということは欠かせない要素である。騒いでいるうちに忘れてしまうし、友人や家族との絆を体感的に確認することで、仮に自分が死んでもこの世になんらかの痕跡が残るというような幻想を維持できる。

しかも大災害の時のように、心の中全体が大騒ぎで全ての部署が忙しければ、隠蔽課があわてていても目立たないが、StayHomeと手洗いだけを例外としてとりあえず日常が続いていると、会社全体の中で隠蔽課だけがあわてている様子がクローズアップされて、はなはだまずい。

インターネットが最近ギスギスしているというのは、こういう事情ではないかと私は想像している。

隠蔽課の表向きの業務がなんであるかは人それぞれだが、外から見ると、攻撃的な書き込みを連発しているように見える。「あなたはなんでそのような書き込みをしているのですか」と聞いてみると、その課の表向きの業務がわかるが、実際にしていることは隠蔽ならびに隠蔽の隠蔽であることが多い。そのようなことを尋ねても「ウチの会社にはそのような部署はありません」という回答しか返ってこない。

ただ、そういうことをどうしてもしてしまうものなら、インターネットでやるのが一番いいと私は思う。インターネットならいろいろな形でそれを見ないという選択肢が用意されているからだ。

不安のためにデマに踊らされてデマを拡散してしまうのはまずいけれど、デマの背後には、その人がどのように安心を得たいのかという切実な願いがある。

どういう情報で安心を取り戻すのかは人それぞれで違うし簡単に直せるものではない。

情報や仮説を訂正する時に、相手の安心のかたちに踏み込まないことが重要だと思う。政府を批判することで安心する人もいれば、政府を支援することで安心する人もいる。科学と同一化して安心する人もいれば、科学が代弁する人との絆を感じて安心する人もいる。

安心のかたちはみんな違う。

間違った情報は訂正すべきだし、政策は議論すべきだし、多数の人の行動を変えなければいけないこともある。

これらの目的のために、他人の安心のかたちを変えるのはやめよう。他人の安心のかたちは、組織における「隠蔽課」のように、その存在そのものを見せたくない心の中の働きにつながっていて、必ず、多くのもっと厄介な問題を引き起こす。少なくとも緊急時にやることではない。

そして、他人の情報や行動は、そこに触れなくても変えられるはずだ。自分の中の「隠蔽課」と先に直面すればいいのだ。