大きなものを感じている僕たち

地震の前に僕が見ていた世界は、等身大の姿見に映した自分のようなもので、つまり、鏡の枠と自分の大きさはほとんど同じで、鏡に映るものはほとんど全部自分だった。

地震の後に僕が見ているものは、自分よりずっと大きな鏡の前に立ちすくんでいる自分で、その鏡の中で自分の姿は本当に小さい。僕は自分よりはるかに大きなものを鏡の中に見ている。あるいは、自分の小ささの中にその大きなものを見ている。

そして、その大きなものを回りの誰もが同じように見ているように僕は感じている。大きなものは、テレビの中に見る津波であったり、身体が覚えている揺れの記憶であったり、ガタガタと鳴る家具の音であったり、果てしなく増殖するデマであったり、自分の頭の上から降ってくる放射能の悪夢であったり。

誰もが声を枯らしてその大きなものと戦っているように見える。

それぞれが違う相手と戦っているようだけど、本当はみんな同じようにその大きなものの前で呆然としているようにも思える。

でも、わずか数日前にあったはずの、等身大の鏡の中にあった世界はもう戻っては来ないんだ。

世界は大きい。誰にとっても身震いするほど大きい。その大きなものの形でなく形の無さに僕たちは同じように怯えている。

かたちの無い大きなものを等身大の言葉に収めることはできない。しかし、そんなことをする必要もない。言葉は姿見や手鏡のように、世界のある一部を切り取って見るためのもので、その特定の目的を果たせればOKだ。

僕たちは、それぞれの戦いを懸命に続けていくしかないのだろう。でも、それぞれの戦いの中で、実はみんなが同じように、同じ形の無い大きなものに、たった今、直面しているんだ。