いじめ問題の解決を見て傍観者が不安になるような解決方法が正しいアプローチである

都道府県や市町村の教育委員会に対し、〈1〉いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取る〈2〉深刻ないじめ問題が起きた場合に備え、緊急に学校を支援する態勢をつくる――ことなどを求める。

これは一読して方向が違うと思った。

全くの無策や隠蔽よりはマシだし、緊急避難的にはこのような施策も必要だろう。でも、何かが欠けているし、長期的な解決にはならない。漠然とそう考えている時に、たまたま読んだ次のエントリーが目についた。

これがヒントになり、強権的な手法が本質的でないと私が思う理由がわかったように感じたので、それを書いてみたい。

サインズ・オブ・セイフティー・アプローチ(SoSA)を学んできました。

 オーストラリアのソーシャル・ワーカー、アンドリュー・ターネルという方が開発した、児童虐待の調査・面接に関する比較的新しい方法論です。

SoSAというこの手法については全くの初耳だが、次の記述には非常に共感する。

虐待の解決とは、虐待をなくすこと(殴らないとか罵倒しないとか)だけでは不十分で、それに代わるもの、家族の良さ、強み、肯定的な側面を増大させることにあると考えているのですね。

酒でも犯罪でも何でもそうですが、「〜するな」は効き目が薄いものです。具体的な「良いもの」を増やさないとならないと思います。

私は、多様な要素の多様な動きが一箇所に集約されるポイントであることがいじめ問題の本質だと考えている。つまり、原因は社会全体に薄く広く広がっている。微量であれば問題とならないが、圧縮されると致命的な毒になる。つまり、生物濃縮のような問題としてとらえている。ドメスティック・バイオレンスも同じだろう。

だから、濃縮された毒を再度社会に投げ返すようなアプローチが必要だと思う。

SoSAなるこの手法の発想は、「虐待の原因は当事者には無い(加害者にも被害者にも)」として介入者と当事者が連帯して解決の道筋を探るということではないかと思う。

こういう話を聞くと「なまぬるい!」という感想が一方で私の中にも湧いてくるのだけど、なぜそう思うのかと言えば、虐待家庭のメンバーと自分を無関係にしておきたいからだ。つまり、一方に「まともな」家庭、「まともな」人間がいて、こういう人が起こす問題は微温的、共感的なアプローチで解決できる。しかし、これとは別に「まともでない」家庭「まともでない」人間が起こすとんでもない問題があって、これには強権的な対応が必須である。SoSA的なものが成功するとしたら、「まともな」人間と「まともでない」人間の距離は、思いの他近かったということになって、両者を別物として捉えることに再考を促す。

このような手法は実証的に評価されるべきだ。いかに直感に反していようが効果があればよいやり方だし、いかに思想的に美しくても効果が無ければよくない。ソーシャル・ワーカーが開発し業界関係者の間で評判となっているようなので、効果はあるのではないかと思う。

ただ、強権的、操作的な手法よりこれが効くということがハッキリしてきたら、その事実によって、私は少し居心地が悪くなって不安になるだろう。「そんなアプローチで立ち直れる『まともな』人が暴力をふるうとしたら、『まともな』私も彼の同類であり、私にも同様の暴力をふるう可能性があるのだろうか」

もちろん、その可能性は多いにある。私はひどく暴力的な人間である。

「濃縮された毒を再度社会に投げ返すようなアプローチ」とはこういう意味で、いじめ問題が解決した時に、我々が納得して安心してしまうような解決は本当の解決ではない。解決によって当事者は安心しても、それを見ている無関係な我々の間に言いようのない漠然とした不安感が湧き上がってくるような解決が本当の解決だ。

何らかの固さがあって不安感の「生物濃縮」が発生して問題が顕在化する。正しいアプローチはその「固さ」をほぐすことになるので、圧縮され固定されていた不安感という毒が、再度社会に向けて放出される。しかし毒が放出されてしまうことについて、当事者にも介入者にも責任は無い。強権的なアプローチは、毒をさらに圧縮して別の当事者に固定しようとするので、傍観者には好まれるが実効的ではない。不安は供給され続けるので、いかに圧縮する回路が「固く」ても、いつかはそれが別の形で爆発してしまうだろう。

逆に言えば、もともとあったその不安感や痛みを大人が引き受けないから、子供の間でいじめ問題が発生するのだ。大人が自分の中で起こる不安や痛みに対して寛容でなくなったから、いじめ問題が深刻になったのだと思う。