やらせミーティングとオーマイニュースに見る事前調整への執着

この問題は、タウンミーティングのやらせ問題に通じていると思う。

「民意」というのは、多種多様でまとまりがないものだ。それをそのまま衆目に晒すことが美しくない、事前に調整してまとまりをつけなくてはいけないという感覚を、左右ともに持っている。それがどちらの問題でも根底にあるのではないか。

ネットでは事前の調整は不要でありむしろ有害である。まとめサイトを作るのは雑多な情報や意見が出尽してからでいいのだ。

たとえば、Debian GNU/Linux スレッドテンプレというサイトがある。これはあるソフトについて2ちゃんねるの関連スレッドに出た質問や情報をまとめたサイトだが、このDebianというリナックスについて、非常に有用で包括的な情報源になっている。

もちろん、まとめサイトを作るには、その問題に対して大局的な観点から理解していることや、関連する多様な問題に通じていることが必要だ。また、一定の見識や価値観を持って、切り落す所は切り落していく決断も要求される。そこに専門家の存在価値があり、上記のサイトも相当なエキスパートが中心になって作成しているのではないかと思われる。

Linusは包括的妥協競争の世界チャンピオンという記事に書いたように、オープンソースソフトウエアの開発において、リーダーは、事後の編集の腕を参加者から常に評価されている。参加者の意見をバランスよく取り込むことと技術的な妥当性を両立させているかどうか、そこは常に厳しい目で監視されていて、駄目だと評価されたら、いつでも別のリーダーが違うリナックスを立ち上げることが可能なのだ。

その時、雑多で多種多様な作業の成果は全部公開されていて、古いリーダーはそれを囲いこむことができない。新しいリーダーと古いリーダーは全く同じ材料を提供され、どちらが包括的な妥協をうまくしたかという点だけで比較される。潜在的に24時間365日そういう脅威に晒されていて、最良の編集をしていると参加者から評価された者だけが、オープンソースソフトウェア開発プロジェクトのリーダーを勤めることができる。

政治的な議論では、技術的な問題より専門知識から自動的に収束していくような問題は少ない。従って、よりリーダーの果たす「編集」の役割は大きくなる。

だから、専門性と見識を備えたジャーナリストや官僚が民意をまとめリードしていくことは、ネットの時代でも必要である。しかし、その材料となる生の意見は全部公開されている。従って、材料と結論を比較することによって、編集作業の内容も自動的に誰でも見えることになる。その編集作業の内容と、そこから見えてくる専門性と見識は、これまでより厳しく評価されることになる。

佐々木さんは、オーマイニュースのコメントシステムに関する議論を丹念に拾いあげて、それを自分の見識でつなぎ合わせて、筋が通った記事としてまとめている。これが、ネット時代のジャーナリストの果たすべき役割だろう。

もちろん、オーマイニュース編集部側が同じ材料を別の視点から編集して、全く違う「世論」を集約することも可能である。どちらも生の「民意」が持つゴタゴタやドロドロに何らかのフィルターをかけたものであり、何らかの妥協は含まれる。しかし、どちらの妥協がより包括的で正確に民意を反映しているのかは、再び参加者全員の「世論」によって評価される。

「世論」の形成は、事前調整でなく、多くの人が自由に参加できる議論の場を設けた上で、このような事後の編集、「包括的妥協競争」によって行なわれるべきであると思う。

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