偽りの共同体ゲームを破壊する為にいじめ加害者を理解する

いじめ問題の解決を見て傍観者が不安になるような解決方法が正しいアプローチであるについて、id:umetenさんから強烈な批判をいただきました。

問題のエントリは、基本コンセプトを提示するのが主題であって、私としては、すぐに実行可能な具体的な対策案までブレークダウンしたものを提示しているつもりはありません。

「濃縮された毒を再度社会に投げ返すようなアプローチ」とはこういう意味で、いじめ問題が解決した時に、我々が納得して安心してしまうような解決は本当の解決ではない。解決によって当事者は安心しても、それを見ている無関係な我々の間に言いようのない漠然とした不安感が湧き上がってくるような解決が本当の解決だ。

だから、この部分に同意してもらえるかどうかが一番重要です。そこに同意してもらえるなら、戦術レベルで多少問題があったとしても、正直「ここまで言う必要があるのかなあ」という気はしました。

でも、umetenさんの批判の中には、重要かつ鋭い指摘もあるとも思います。

虐待という犯罪が、血縁関係によって結ばれた家族という一生にわたって続く共同体内部で起こる犯罪だからこそ、SoSAという手法で「共同体の回復」が図られるのである。

にもかかわらず、

学校という時間的かつ空間的に限定された、特殊かつ異常な非血縁関係的な共同体内部で起こるいじめという犯罪に、その「共同体の回復」の手法を適用していったいどうしようというのか。

確かに、家庭と学校の共同体としての性質が違うということには、このエントリを書いた時点では全く考えてませんでした。これは致命的な見落しと言われても仕方ないと思います。さらに、

こんな誤った方法論を嬉々として持ち出すとは、なるほど傍観者としてうまく立ち回ってきた精神の賜物だろうとしか思えない。

これも、ほぼ当たってます。

私は、小中学校時代の記憶がほとんどないので(20代に昔のことを聞かれて往生した記憶はあるのでその頃からそうだったようです)断言はできないのですが、いじめの加害者にも被害者にもなったことはないと思います。自分の回りでひどいいじめがあった記憶もないので傍観者となったことも無いとは思いますが、ポジション的にはそういう位置にいたし、もし身近にいじめが起きたら、そうしていただろうと思います。

これと、もう一つ、内藤朝雄さんのことも指摘されてはじめて調べました。いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体はいずれじっくり読みますが、主としてid:Dryadさんのブログを頼りにネット上で見られるものを探してみました。

なるほど、id:Dryadさんもおっしゃっているように、この問題の基本だと思います。内藤さんのコンセプトを元に、もう少し自分の考えを進めてみました。

まず、いじめ問題の根本的な解決については、共同体主義を解体することが最も重要であるという点には完全に同意します。

多元性の確保。子どもの社会を学校だけに依存させない。部活動を学校から開放し、地域コミュニティが担う等。

これは基本中の基本だと思います。しかし、ここから議論をするのは、何か違う気がします。その点では、Dryadさんの次の一節と同じ考えです。

結局、私が「学校を自分の居場所と思い定める理由はどこにもない」ということに気づくのに、5年以上の時間を要することになる。そして、そのことに気づいて以来、私の人生は一変したと言っていい。

おそらく、自殺予告を出した彼はこのことに気づいていないのだろう。でも、私は彼に対して「逃げろ、死ぬな」と安易に呼びかけることには抵抗を感じる。『「逃げる」ということが意識にすら上らない』この呪縛は、そう簡単に解けるものではないからだ。「頑張れ」と無責任に呼びかけるのと同レベルだろう。

「逃げろ」と言う前に逃げる場所を作る方が先で、その為に、「学校にたまった毒を社会に排泄せよ」と言っているわけです。

ただ、それが具体的に何なのかもう一つ明確でなくて、その為に、「加害者の出席停止」という策にも、漠然と「何か違う」という感覚的なものしかわからなかったのですが、これは、上記の内藤発言の要約を読んで、明確になりました。

Dryadさんが要約されているように、内藤さんはいじめ対策について、「暴力系」と「コミュニケーション操作系」に分けて論じています。

加害者の出席停止は、「暴力系」のいじめには有効でしょうが、そこで減った分だけ「コミュニケーション操作系」のいじめが深刻になり陰湿化すると思います。

それと、内藤さんの言う対策と教育再生会議の緊急提言は、一見似ていて、重要な所が違います。

暴力を伴ういじめに対しては、市民社会における当然のこととして法システムに委ねる。すなわち警察弁護士を学校に介入させる。

内藤さんが「警察」や「弁護士」等の外部の介入を提言しているのに対して、教育再生会議の対策では、

都道府県や市町村の教育委員会に対し、〈1〉いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取る〈2〉深刻ないじめ問題が起きた場合に備え、緊急に学校を支援する態勢をつくる――ことなどを求める。

教育委員会、つまり、教育システムの内部で犯人を認定するように読めます。

この違いは大きくて、おそらく、教師や教育委員会の取調べの限界を熟知した加害者が、ターゲットを加害者にしたてて、誤認逮捕ならぬ誤認「出席停止」の措置をさせるというような、いじめの進化が容易に起こるのではないか、私はそう思いました。

つまり、こういうことです。

  1. 「暴力系」のいじめには法システムの介入が必要
  2. ただし、法システムの介入の主体は、法システムの現場を熟知しており法システムの論理で動く人、つまり「警察」や「弁護士」が必要
  3. 「暴力系」のいじめ対策は「コミュニケーション操作系」のいじめへの移行とその高度化や(悪い意味での)洗練を促すことになる

従って、「コミュニケーション操作系」いじめの対策の方が本丸であると私は思います。前のエントリでは、私は漠然とこれを想定して「SoSAというアプローチに対策の鍵があるのではないか」と書きました。

umetenさんは、これを「共同体の回復を(半ば強制的に)促す手法」ととらえて、(解体が難しいかあり得ない)家庭という場に適用するならともかく、学校に適用するのは全く筋違いであると言っていて、ここに一番大きな対立点があるように思います。

私は、SoSAやソーシャルワーカーの現場については何も知らないので、ここからはSoSAと切り離して論じたいのですが、ここで私とumetenさんは、次のような構図で対立しているのではないかと思います。

  • umetenさんは、加害者と被害者の対立関係、責任を加害者に帰着させることを重視している
  • 私は、加害者と被害者が共通に背負っているものがあると想定し、そこに着目しようとしている
  • umetenさんは、共感的アプローチ=加害者の責任をあいまいにする=「仲良しごっこの強制」と考えている
  • 私は、「共同体の解体」の為に、共感的アプローチが有効だと考えている

学校の中で行なわれていることは、実質的には既に崩壊している共同体を無理に維持しようとすることであり、その無理が子供たちに圧力となっていじめ問題を引き起こす、深刻化すると私は考えています。そして、その圧力を受けているのは被害者だけではなく、加害者も同様に圧力を受けていてそれがいじめの主たる動機だと考えています。

こういう論法は、加害者を免責する為に使われてしまいがちなので非常に問題があるし、私の前のエントリは、その点で非常に不用意なものであることは認めます。また、「暴力系」のいじめ、もしくは、いじめという行為が、第三者から見えやすいものであるケースでは、ここで論じている「加害者への圧力」という問題より、その行為自体の責任をはっきりさせ罰することの方が優先度が高いことは言うまでもありません。

しかし、「加害者が受けている無形の圧力」という問題があるとしたら、単に暴力や特定の行為を止めることは問題の解決にはならないでしょう。

「無形の圧力」は誰にでも等しく加わっていて、加害者はそれに対して反応するだけ少なくとも傍観者よりは正直であると私は思います。加害者を排除しても、傍観者の中で次に正直な子が加害者になる(ことを強制される)のではないかと思います。

このような構図を明らかにしないことには、単に学校という場を解体しても、どこかで子供は教育を受けて、どこかで一緒に遊ばなくてはならないわけで、空虚な共同体ゲームといじめがそこで繰り返されるのではないかと思います。単にいじめの現場が「学校」から違う場所に移るだけです。

なぜなら、自分たちが与えている「無形の圧力」の存在を、親や社会は否認したいのです。大人が、自分たちの所属している共同体が崩壊していることを認めなければ、学校の中にある幻想とその害を直視できません。それを直視しない限りは、いくら場を変えても同じことを強制してしまうでしょう。

結局、私は、いじめ問題は、根本的には大人の社会の中にある「否認」の問題だととらえています。「否認」とは、「それが有ると言う自分」と「それが無いという言う自分」が分裂して対立している状態です。自分が所属している「古き良き共同体」やそれに対する自分自身の信頼が崩壊しているという事実を「否認」することから発生する緊張が根本にあるのだと思います。

子供たちが代理として請け負ってしまっているその緊張感を解明し、大人に投げ返すことが、一番重要だと私は思います。加害者となっている子供の価値観やその枠組みを共感的に深く理解していけば、社会が共通に持っている「否認」の構図が見えて来るはずです。それは、大人の「共同体ゲーム」を破壊し、その結果として学校という「共同体ゲーム」を破壊するでしょう。

umetenさんは、カウンセリング的な手法全体に疑念があるようです。実態としてそれは正しいのかもしれませんが、カール・ロジャーズ選集を読む限り、少なくとも親玉のロジャーズは、「共感」ということが時に破壊的な要素を含むことを強く意識しています。だから、もし批判するとしたら「スクールカウンセリングは充分ロジャーズ的でない」と批判すべきではないかと私は思います。つまり「仲良しごっこの強制」で良しとするようなカウンセラーがもしいたとしたら、加害者の参照枠に充分共感できてなくて、自分の枠組みの内部だけで問題をとらえている可能性が高い、ということです。