ローマ法王炎上とサウンドデモがつきつける「他者と固有性」という問い

あらかじめおことわりしますが、私はローマ法王サウンドデモもどちらも、現物を見たことがありません。また、どっちにも全然予備知識がなくて全く詳しくありません。ここ数日、なんとなく眺めているサイトでこのふたつが話題になっていて、どちらもよくわからないことが多いので後学の為にちょっと勉強しておこうかな、くらいの気持ちで読んでいたら、自分的にのっぴきならぬ論点が出てきてちょっとハマってしまいました。

まず、ローマ法王炎上の話。

この二つは、「アンカテ」風な変な観点でなく、普通の解説記事として、読んでおいて損はない。わかりやすい解説です。この問題自体については、この二つでおなかいっぱいなので、ここでは触れません。

それで、私が気になったのは、あんとに庵さんの次の記述。

しかしベネディクト16世は他宗教の固有性をも尊重する。互いに迎合せずそれぞれの個を活かす事の出来る関係性を良しとしている。個が自立した世界とはそういうものだと思う。彼は他宗教との対話を積極的に行ってきた。

このスタンスは例えばカール・ラーナーのような包括主義とは相容れない側面もある。

「固有性」と「包括主義」との対立っていう所で、何かピーンときました。

「他宗教との対話」を熱心に進める人が、「包括主義」と対立するってどういうことだろう。「包括主義」という専門用語は全く知らないけど、「排他主義」ではないだろうから、やっぱり他の宗教と仲良くしたい人なんじゃないかな。それがどうして合わないのか?

それで気になって、ちょっとググってみたら、ビンゴ!でした。

こんな論文見つけちゃった!

「みんな仲良く」ってのは危険思想だって話。「みんな仲良くしましょう」って言ってると、「大東亜共栄圏構想」になっちゃうぞみたいな話。

「宗教って結局は世界が平和であるようにとか、家族と仲良くとか、真面目に生きろとか、似たようなことを言ってるんだから、根本は同じものでしょ。だから、宗教っていろいろあっても結局根っこは同じものだろ」というのが、「多元主義」とか「包括主義」の立場(なんて言ったら本職の人は怒るだろうけど、素人にはそう見えてしまいましたってことで勘弁)

このことは、多元主義が(その名に反して)他者性を排除する議論であることを意味している。あらゆる個物を「絶対者」の内に取込んで理解するため、多元主義の議論では(《異教徒》のような)「他者」の他者性が解消されている。「他者」は、多元主義では「なかったこと」にされているのだ。

「他者」の他者性が解消されるっていうのは深刻な問題ですね。

日本人には「学級会的」と言えば雰囲気は伝わるかもしれない。「異質」な意見が「異質」なまま受容されるのではなく、「異質」性を脱臭された上で「共同体」の中に取りこまれてしまうような感じかな。

ベネディクト16世という人が、この立場から距離を置いてきた人だとしたら、誤解されやすい発言をしてしまったことの意味がよくわかる。

つまり、イスラム教と仲良くするのに、「学級会」的な「仲良く」でなく、もうちょっと違う形の「仲良く」ってことを目指していた人だったら、一方で「包括主義」的な考え方にもブレーキをかけつつ、宗教間の対話を促進しようとするわけで、それはちょっと入りくんだものの言い方になるのも無理はないだろうなあという感じ。

クラスのまとまりをもう一段深くするために学級会のあり方の改善を提案したら、「おまえはクラスの和を乱している」と言われたみたいな感じかな。

この論文のテーマが、法王の立場とつながっているかどうかは全く不明なのだけど、キリスト教神学という世界では、「みんな仲良く」というテーマについて、かなり突っ込んだ話が出ているようだ。

我々は多くの場合、なんらかの(広い意味での)共同体に帰属して生きている。共同体の構成員は、その共同体の規範を内面化しており、そのため共同体のルールはある種の「疑えなさ」をもつ。ルールを内面化し、共同体の一員として生きることは、別に苦しいことではなく、むしろ、「内輪の楽しみ」を与えてくれるものである。そのことは、否定すべきものではない(そもそも、共同体のルールをまったく内面化しなかったら、「人間」として生きることはできない)。問題は、多元主義者のような形で全体性を求めることで、共同体に属さない「他人」が訪れたとき、それを「まったく受け容れなかったと同じこと」にしてしまうことである。

 この時、共同体のルールを共有しないものが、いわば「他人」としての「他者」である。柄谷の議論を参考に、この「他人」の引き受けについて考えてみよう。「他人」は「私たち」が自明のものとみなしてきたルールに疑問を投げかけ、「内輪の楽しみ」を脅かす。「他人」が現れた時、共同体のルールに従うなら、おそらく「他人」を引き受けることはできない。「他人」は、共同体を脅かすものとして現れているからだ。「他人」を引き受けるには、共同体のルールを一度カッコに入れてみなくてはならない。しかし、ここに困難がある。

それで、「他者」が「他者性」をつきつけることによって共同体のルールを可視化する、という所が、次のサウンドデモの話につながっているような気がした。

「他人事みたいに眺めてるけど、実は既にあんたたちもデモに参加してるんだぜ?」ってことを何とかして意識させられないかな、と。別にこちらのコンテクストをそのまま受け入れてもらう必要はなくて、とりあえず思考するきっかけになればいいんじゃないかと思うんですよね。

デモがもし「見せる側」だとするなら、なぜ「見る側」の姿勢は問題にされないんですか?同じ公共空間を共有しているはずなのに、なぜ「見る側」「見せる側」という単純な分類が成立するんです?「見る側」は同時に「見せる側」でもあるし、その逆もまた然りですよ。その言説には、「分断統治」と同じ匂いを感じるんですが。

「見る側」と「見られる側」の間の深い溝は、もちろん超えられれば最高です。でも、それが目的なわけではない。むしろ、普段不可視化されている「溝」の存在を可視化させることが重要なのではないでしょうか。「見る側」の「見る」という行為は、必ず自分に跳ね返ってきます。「彼らを見て、こう思う自分って何なのよ?」と考えてもらえれば、その「デモ」に意味はあると思います。問題は解決される前に、認識されないと議論の対象にもなりませんから。まずはそこからとはじめるしかないのでは。

ここで、id:inumashさんが言っていることは、「他者性を消去しない対話のあり方への模索」とか言えないだろうか。

「彼らを見て、こう思う自分って何なのよ?」というのは、「他者」の存在を視野に入れた固有性の追求だと思う。「路上」という人と人がすれ違う場に、そういう経験が全く無いっていうのは本来おかしなことなんだけど、現実的にはそれが無い。日本ではそれが消滅しつつある。

ベネディクト16世カトリックという宗教の固有性を大切にすることを旨としている。それは単なる伝統回帰、ノスタルジーではない。聖書の教えに基づく基本的な理念をもう一度しっかりと見つめなおそうと信徒達に問いかける。自分達が大切にしてきたものはナニか>その再発見をすること。それはカトリックという「個」の確認行為である。

信仰を持った人にとっては、「固有性の追求」というのは、こういう形になるけど、そういうものがない普通の日本人にとっては、

ねえ、みんな知ってるかい?まっ昼間に渋谷の街のど真ん中を堂々と歩くのは気持ちいいんだぜ。右往左往する警官を尻目に、路上から色んな人が輪に入ってくるのを見るのはとても楽しいんだよ。普段「敵」としてしか見てくれない警官も、こっちがちょっと変なアクションしたりすると吹きだしたりするんだぜ。自分の大好きな音楽が、まるでその存在を主張するみたいに路上に鳴り響くのは最高なんだぜ。

こんな形になるのかもしれないし、昼間っから路上で踊ってる変な連中を眺めながら「彼らを見て、こう思う自分って何なのよ?」と自問している観客なのかもしれない。

つまり、「他者」との対話のベースは、「自分達が大切にしてきたものはナニか>その再発見をすること」という自分への問い掛けである。自分が大切にしているものを大切にできてはじめて、他人が大切にしているものを尊重できる。それは、必然的に共同体が尊重している価値を揺るがしてしまう。

そういう意味で、炎上法王とサウンドデモは、実は同じ所から発生した問題ではないかと思いました。

結局固い話になっちゃったので、最後のお口直しにコレ→YouTube - 3人デモ