人はネットの言葉から受ける影響を自己管理できるか?

ぶっちゃけソースコードと言葉は違う。言葉は見た瞬間自動実行されるバイナリみたいなもの。

これは非常に鋭い指摘だと思う。というか、rnaさんと議論していてなかなか解けなかった謎が「見た瞬間」に氷解した感じ。

確かに私は、ネット上に書かれた言葉を「ソースコード」に近いものとしてとらえている。つまり、それが与える影響を読む人が管理できるものだと思っている。

だから、自分の所でも他人の所でも、無意味な誹謗中傷の類があっても、それを実行可能な状態にすることなく捨ててしまう。だから、それは私に影響を及ぼすことはなくて、私にとって存在してないのに等しい。

自分にとって意味があって有用な影響を及ぼす言葉だけを私は「コンパイル」して実行する。つまり、自分に影響を及ぼすことを許す。

私にとって、見た瞬間に自動実行される言葉には2種類あって、ひとつは、まさにこのrnaさんのコメントがそうであるように、「知識」あるいは「補助線」のような言葉。

「言葉はソースかバイナリか」という問題設定は、たぶん、一生忘れることはないだろう。この補助線によって、私の理解力や表現力はアップしたと思う。私がネットの言論を巡ってする議論のかなりの部分が、この問題に関わっている。「言葉は見た瞬間に自動実行されるかどうか」という形で対立点をとらえれば、論点が明確になるケースがかなり多いような気がする。

「知識」は、特にそれが何かの謎を解く場合には、見た瞬間に自動実行され、ほぼ永久的に見た人に影響を残す。ただし、それが間違っている場合には、後から正しい知識で上書きすることはできる。

もう一つは、自分に対する悪意や反感の存在。

「誹謗中傷は気にしない」と言ったけど、気合が入ったものはそうではない。解消がとても不可能と思えるような対立点に強い感情が込められているような反対意見や悪口には、やっぱりヘコむ。

しかし、そういうケースで多くの場合に、対立している人にとって私が「解消がとても不可能と思えるような対立点に強い感情を込めている」人間なのだと思う。そういう意味では、私とその人は対称的な関係にある。

お互いにそういう関係にある人間が存在していることを相手に知らせないよりは知らせた方がいいと私は思う。というか、ある意味では、そういう関係にある人間同士がお互いを認知することが「言論」なのではないか。

あともう一つ、自動実行っぽい、つまりウィルスっぽい言葉としては、プライベートな情報の暴露がある。私は、言論の自由にほぼ無制限の優先度を置いているが、言論の封殺を目的としたプライベートな情報の暴露には断固反対だ。しかし、情報暴露の為に書く内容は、多くの場合、論敵に届くことを目的としてないのだから、これは「言論」ではないと思う。

ということで、私はやっぱりネット上の言論は基本的には「ソースコード」的なものであり、そう扱うべきものだと思う。つまり、「ネット上の言論、つまり何かの言葉がネットに書かれたことで起こる現象は、全て読み手の管理下にあり読み手の責任とするべき」だと思うけど、そうは思わない人がたくさんいることもよくわかるので、これについては、別途よく考えてみたい。