「いじめの社会理論」書評

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体
いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

凸字型コースのハーフパイプに似たいじめ問題

スノボーのハーフパイプという競技は、コースがU字型だから成立する。左右どちらでも端に行けば、競技者にはまん中へ向かう力が加わって、その力はまん中から逸れる程強くなる。そういう力学があるから、競技者は、コースを端から端まで使いきって見事な演技をすることができる。

考えるのも馬鹿馬鹿しい設定だが、もし、これが逆に凸字型に曲がったコースであったら、大半の競技者は滑りはじめやいなや、あっと言うまにコースアウトしてしまうだろう。U字型の場合と逆に、競技者には、外向きの力が加わわり、その力は逸れれば逸れるほど強くなって修正不能になる。

もし、これを滑りきるプレーヤーがいたら、それは単にコースまんまん中を一直線に脇目もふらずに進んだ人間でしかなく、見ている方もやっている方も一つも面白くない。

私がいじめ論議を見ていて感じる空しさは、この凸字型コース上のスノーボードに似ている。つまり、

  1. U字型コースでの経験を元に「コースアウトする奴は特別な奴」としか見ない意見
  2. まんまん中を一直線に駆け抜ける方法を考察する意見

のどちらかに思えてしまう。

「いじめは昔からあったしなくならない(だから社会は放置し子供は適応せよ)」という議論は、無意識にU字型コースを前提にしている。つまり、コースの横に逸れて行くことを目くじら立てて修正する必要はない。なぜなら、ある程度逸れれば、それを是正する力が自然発生的に加わるからであるという話。その是正する力は、論者によっていろいろなニュアンスがあるが、苦しさが増加すればそれに応じて解決する為の資源も多くなると見ている点が、現状を認識してない非現実的な議論のように、私には思えてしまう。

一方、ある程度現状を理解した上での対策は、「どうやって子供にまん中を走らせるか」という議論になりがちだ。つまり、過剰な介入を求めたり、教師に超人的な能力を期待したりする。現実問題として、ちょっとでも兆候が見えた所で対策して方向を変えないと破滅的な結果になってしまうので、仕方無いとは思うのだが、「それが成功したらどういういいことがあるのか」という点が見えてこないし、「誰にそんなことができるのか」という別の点から非現実的だ。

正のフィードバックを説明する「いじめの社会理論」

「いじめの社会理論」は、そういう私にとって、初めての納得できる分析であった。つまり、この喩えで言えば、この本は、コースが凸字型であることを問題の中心に置いて、その形状やその効果を理論的に分析している。その上で、コースをU字型に是正する方法、つまり、個人に過剰な負担を求めずに、社会に豊かさと秩序をもたらす方法を提言している。

もう少し具体的に言えば、この本はいじめ問題の「正のフィードバック」という特性に力点を置いて分析している。

学校において対人関係の問題が発生するのは必然である。ハーフパイプのコースのまん中だけを滑ることが難しいのと同じで、大半の子供はどうしても右へ左へブレながら、たくさんの小さな衝突を起こしながら進んでいく。その小さなブレが自然と修復されるなら問題は大きくならない。むしろそれは、学校という場における体験に様々な色合いをつける有用な要素でもあり得る。

しかし、いじめ問題は、巻き込まれた時にそこから脱出するのに非常に大きな努力を要するし、それを避ける為には不自然なほどの規制を必要とする。放置しておいて自然にコースが修復されることはめったになくて、深刻な問題ほど見えにくくなるような、特殊な性質のある問題である。

本書において、著者の内藤氏は、その特殊性に焦点をあてて、極めて精緻な理論化を行なっている。その道具立ては多岐に渡り、全体として複雑であるが整合性のあるモデルを組み立てているが、私が特に注目するのは次のような点を、事例と理論の両面から明らかにしている所である。

  • いじめ加害者は、主観的には正当防衛としていじめを行なうこと
  • 現行の枠組みの中では、教師と生徒の間に根本的な利害対立があること
  • いじめの分析は、個人の内面のみに注目する心理学単独でも、相互作用に注目する社会学単独でもできない
  • 個人の内面の救済を後回しにしても、有効な対策があり得ること
  • 教育バウチャー制を中心とした政策提言

これについて、多少不正確になるかもしれないが、自分なりの言葉で要約してみたい。

いじめ加害者は、主観的には正当防衛としていじめを行なう

私が考えるいじめ問題の特殊性の原点は、この点にある。

集団によるいじめは、加害者グループにとっては、心理的安定をもたらす一つの「救い」(内藤氏の用語で言えば「祝祭」)として機能している。そして、それに参加せず批判的に見ている傍観者は、その共有された「祝祭」に対する脅威となる。

そのことは本書に引用されている、次のような加害者側の証言によって明らかになっている。

いじめは良くないと思うが、やっている人だけが悪いんじゃないと思う。やる人もそれなりの理由があるから一方的に怒るのは悪いと思う。その理由が先生から見てとてもしょうもないものでも、わたしたちにとってはとても重要なことだってあるんだから先生たちの考えだけで解決しないでほしい(P42)

また別の少年は、自分たち以外の者が「調子に乗っている」とむかつくと言う。「調子に乗る」とは、例えば授業中にうるさいとか、女といちゃいちゃするとかいったことである。(P169)

「調子に乗っている」人間の行為は、加害者にとっては無関係のことであるが、その存在自体が加害者集団に対する脅威となる。つまり、ある種の不安定さを共有しない人間がいることは、その不安定さという根本的問題を浮き上がらせ、それに直面することを強要するという意味で、彼らの安定に対する破壊行為と受け止められるのである。それが上の証言の、「わたしたちにとってはとても重要なこと」という言葉の意味である。

いじめの渦中にある加害者の多くは、言い訳でなく本心から倫理的には正当な行為としていじめを行なうのである。内藤氏の理論は、この点をうまく説明できる所に大きな意味がある。

現行の枠組みの中では、教師と生徒の間に根本的な利害対立があること

学校という、全面的な関与を強要される空間においては、そのような独特の秩序や倫理が集団的に自然発生する。

教育関係者は、その秩序自体には問題が無いとして、むしろ、これを「きずな」という言葉を使って積極的に評価する傾向がある。

従って、いじめの対策においては、この生徒同士の「きずな」を壊さず、それを軌道修正することで対応しようとする。明確な暴力行為があったとしても、警察や司法の介入を求めることは、この「きずな」の運用においては、致命的な失敗であり、学級運営にとって致命的な汚点であると見なしがちである。

つまり、学校というシステムの中に外部の価値観が介入してくることを嫌う傾向があるということだと思う。

それによって、当初の小さな暴力が見逃されることが、小さな「祝祭」を生み、それが自分たちの心理的安定につながることを発見した加害者が、そこに依存する傾向を強め、暴力を激化させることになる。

内藤氏は、精神分析の理論を援用して、このシステムを解明していく。おそらく、そこで援用されている理論は、アルコール依存のような嗜癖にも対応するものだと思う。つまり、不安の大きい者が酒や薬物のような偽物の心理的安定に依存すると、それにハマってしまい抜け出せなくなってしまうのと同じメカニズムがそこにある。

教育関係者が生徒同士の「きずな」に依存した学級運営を行なう為に、外部の介入を避け、事なかれ主義で小さな問題を内々に処理しようとすることは、嗜癖的暴力のきっかけとなりやすい。

いじめ問題は、共同体的学校運営という、現在の教育システムが依存している所を根に持つので、解決が難しいのである。

いじめの分析は、個人の内面のみに注目する心理学単独でも、相互作用に注目する社会学単独でもできない

そして、これを解きほぐすには、全く新しいアプローチが必要とされる。

いじめという犯罪は、不確定要素が全て犯罪者側に都合がいい方に転んでも、加害者にとって得る物は少ない。あるいは、その利得について第三者が理解することが難しい。

誰かムカツク奴がいたら、先生に見つからない所で一発二発殴る所までは理解できるかもしれない。一発殴ってスッキリしてしかも見つからないという幸運があったとして、翌日もう一発殴れば、さらにスッキリするけど、そのスッキリ度(経済学用語で言えば限界効用)は低くなるのに発覚するリスクは高まる。二日目でやめるか、三日目でやめるかそういう個人差があるとしても、継続し被害者を追いこんでいけば、どこかで効用がコスト(リスク)を下回り、自然に終わるはずである。

しかし、実際のいじめでは、見つからなかったことによって暴力は激化し、外部の介入無しには終わることはない。殴ることによる加害者のスッキリ度は継続する程高まり、その動機は強化されるからだ。もちろん、この「スッキリ」は、本物のスッキリではない。本物であれば、一定の満足を与えてくれるから、それによって問題行動は一時的にであれ収まる。しかし、疑似スッキリは、偽の満足感を与え、よりその動機を強化する。そこが、アルコール中毒等の嗜癖に似ている。

それに対し、一般の犯罪はずっと理解しやすい合理的な行動だ。つまり、自分がつかまる確率の推定は、犯罪者とそうでない一般の人間との間で、そう大きくは違わない。ある程度の技能や情報があれば、盗みをして得ることができる報酬が、つかまって不自由な期間を過すリスクを上回る。純粋に犯罪の期待値を計算したら、その結果がプラスになる場合に犯罪を実行する。良心が欠けていることだけを想定すれば、一般人とほぼ同じ行動原理で説明できる。

そういう意味で、多くの犯罪には価値判断が歪んでいるにしても一定の合理性があるが、いじめには合理性が無い。従って、人間の合理性を前提とする経済学的アプローチで対策することはできないし、それに似た方向を志向する社会学的分析にもなじまない。合理性は要求しなくても、分析の最小単位を個人とすることで、内面が分裂、荒廃した人間同士の相互作用に迫ることは難しい。

一方で、精神分析等の心理学的アプローチは、特殊な行動を支配する個人の内面に迫ることができるが、個人の内面、特に無意識は一般的な図式として整理することが困難で、極度に個別的な対応を必要とする。

内藤氏の方法は、個人を原子とするのではなく、その内面にある複数の心理的な構成要素を分析の対象とした上で、少人数の集団内部での相互作用を解明しようとするものだ。

この方法論によって、「祝祭」のような嗜癖的な要素を含む暴力に対し、介入の力点を置くべき点を、一律に見つけることができる。個人の内面には多様性があるとしても、その相互作用にはある程度決まったパターンがあり、それを見つけることで効果的な対策のあり方を導くことができるのである。

個人の内面の救済を後回しにしても、有効な対策があり得ること

個人の内面のみを見ていると、その解決は、加害者の内面を救済することしかあり得ないように思えてくる。つまり、彼らが「調子に乗っている」者と共存できるような内的世界、認識の図式を与えなければ、その対策は一時的なものに過ぎない。彼らの被害者意識は主観的には痛烈なものなので、それを残したまま単に行動を抑制するだけの対策を行なえば、その恨みが蓄積し、さらに破壊的な行為につながるのではないかということだ。

しかし、内藤氏は、集団の中での相互作用に着目し、そこに対策の重点を置く。具体的には、内藤氏の用語で言う、利害図式と全能図式の切断という発想である。

「わたしたちにとってはとても重要な」集団内での秩序形成は、当初は偶然的な要素に支配される。誰が被害者になり誰が加害者になるということに必然性は無い。たまたま誰かがターゲットになり、いじめが行なわれることで、集団の結びつきが生まれる。その結びつきは、当初は、「人をいじめるのはよくない」という外部の常識による介入に対抗できるほど強くはないが、それが見逃されいじめが安全に行なわれることで、その繰り返しによって強化される。

強化された後においては、それは「全能図式」をサポートするもので、嗜癖のメカニズムと同様、精神分析的なよじれに支えられていて、それを解きほぐすのは容易ではない。

しかし、それが強化されていく過程においては、「利害図式」に左右される部分が大きく、いじめの発覚の可能性やその処罰の方針によって、充分抑制可能である。

いじめが激化し継続するシステムは、利害図式と全能図式の相互作用に依存している。だから、外部からそこに介入し、そのつながりを切断することが、有効な対策になると内藤氏は言う。

つまり、加害者(潜在的加害者)の救済を後回しにして、加害者を分断することが重要だということではないかと思う。

これは、私のような問題の心理学的側面に注目する人間にとっては盲点であるが、正論であると思う。また必ずしも心理主義と対立するものではないと私は考える。

内藤氏の対策によっては、加害者は救済されないが、その為の時間と余裕を作り出すことはできる。つまり、加害者の集団的「祝祭」としてのいじめが発生してからでは、加害者の救済という本質的な対策にとっても時間の猶予がないし、その困難さが増大する。事後の介入によって、加害者を救済しそれによって被害者をサポートすることを適切なタイミングで行なうことは、可能であるとしても、介入の質の高さが要求され、ちょっとした手違いが二次被害につながる可能性も大きい。

それに対し、加害者を分断することは、心理的観点からは積極的な意味のある対策ではないが、その対策の為の時間を用意することになる。つまり、被害者が出現する前に(潜在的)加害者にアプローチするならば、介入者は、(まだ発生していない)被害者のことを考慮せずに、純粋に介入者と(潜在的)加害者にとって最適なペースで介入を行なうことができる。

また、ここでは「救済」という言葉を使っているが、見方を変えれば、加害者の価値観に特定の方向への変更を強いることでもあり、強制すべきことではない。そういう意味で、心理的アプローチを対策の主眼に置くことは、倫理的な問題につながる可能性もあるが、これを後回しにすることによって、そのような介入を拒否する選択肢を残すこともできる。

そういう意味で、内藤氏の提言は、心理的アプローチを側面からサポートし、その本来の機能に専念することを可能にする提言でもあると思う。

教育バウチャー制を中心とした政策提言

以上のような分析から、内藤氏が具体的な政策として提言するのは、学級制度の解体と(何故かその言葉は使ってないが)教育バウチャー制の導入である。

これについては、本書の中ではちょっとだけ出てくる自動車学校との比較が説得力がある。自動車学校と公立の小中学校は、どちらも、能力も志向も多種多様な幅広い生徒を受けいれているが、そのコストパフォーマンスには大きな違いがある。

小中学校で長い時間を過ごす多くの生徒が、基礎的な学力を身につけられないまま、無為に時間を過しているのに対して、自動車学校では、大半の生徒に普通免許取得という具体的な教育的成果を上げている。

私は、現在の教育システムには批判的であるが、個々の先生方の能力や資質や熱意に関しては、むしろ評価すべき方が圧倒的に多いと考えている。それだけに、この圧倒的なコストパフォーマンスの差は、重要な問題だと思う。

生徒も先生も凸字型コースを無事に通り抜けることに、全ての精力を使い果たし、本来の学習に向けるだけのエネルギーが残されていないのだ。

全人的な関与を要求する共同体的な学校運営は解体し、自動車学校的なシステムに移行すべきである。

もちろん、最低限の義務教育と、人間関係を体験する場は別途必要である。その議論は必要であるが、個別科目の教育を切り離し、選択肢を与えることで、現在の学校にある多くの問題は、自然に解決していくと私は思う。