性悪説では楽観的すぎる

うーん。これは私のエントリへの反論として書かれているようですが、ここでkagamiさんが言われていることには、私はほとんど同感です。

でも、私の人間観は「性善説」ではないと自分では思います。というのは、私はいわゆる「性悪説」は楽観的に思えるのです。人間の「性」が「悪」であるとする人は、逆に「悪」は人間の「性(さが)」つまり本能に近いような低レベルの部分によってドライブされていると思っているのではないでしょうか。

「性(さが)」によって行なわれる「悪」は、同時に「性(さが)」によって縛られているので、やれることに限度があるし対処することも簡単です。

人間が生きる限り、そこには自由が生まれ、自由は必ず悪を為す自由としても存在する。

私はkagamiさんと同じく、悪は自由から発生すると思っています。ということは、「悪」のすることを予測したり対処したりすることには、本質的に不確実性がつきまとう。

制度によって縛ることができるのは「性(さが)」から生まれる悪だけであり、言わゆる性悪説の人はそこしか見てないように私には思えます。自由から生まれる悪は、制度の上を行く。

「加害者の出席停止」に懸念を示すのは、それが目に見える暴力と暴言、つまり前者を封じることのみを狙っているように見えるからです。それが悪いとか不要だと言っているわけではなくて、それだけでは足りない、「自由から生まれる悪」としてのいじめは、軽く制度の上を行って、むしろ制度を利用して別の形の悪をなすのではないかという気がするわけです。「ターゲットを陥れて出席停止に追いこむ」というのはその一例で、今の子供はもっと巧妙な手段を簡単に考え出すような気がしてます。

てな事を
10年くらい前に思って、色々と語ったりもしたけど
今の「イジメ」の話って
その「10年前」の話よりもさらに酷くなっていますね。
なので
今、成人くらいの大人になりたてくらいの人でも
「自分の頃のイジメ」を基準にしても
上に書いた事と同じ事が言えるんだと思う。

これは、別のエントリに関連しためたかさんの意見ですが、めたかさんは、ご自分の経験と「10年前」と「今のイジメ」がそれぞれ全く違うとおっしゃっています。「10年前」は、「かけ離れている」けどまだ言及できる範囲であり、今はさらにその先を行っているということだと思います。どこかに「理解の範囲外(と言及できる限界)」を設定して「今のイジメはその先を行く」と言うのが誤解がなくて正確な言い方かもしれません。

私は、無理して「その先」にまで言及しようとするので、誤解されやすい表現になっているような気もします。

その悪を、防ぐ努力として、一元的な理想的完全環境を目指すよりも、寧ろ、色んな環境に 脱出できる状況、色んな選択肢があって、学校に通わなくてもいいという選択肢もあって、 悪と対峙することになったとき、すぐに脱出及び避難可能な環境を整備するべきだと思う。

それは全く同感ですが、単に「選択肢」を用意するだけでは、親と社会が逆に「一元的な理想的完全環境」を意図的に選択してしまうと思います。あるいは、子供自身に自発的にそれを選択させるような圧力が働いている。

kagamiさんと私は、この問題についての考えはかなり近いと私は思います。違うのは、私の方がより悲観的であることだと思います。kagamiさんが言う「根源悪」は常に存在していましたが、これまではヴェールやクッションのようなものがありました。今は子供たちが直接そういうものに晒されているのです。「制度」の強化も「自由」の拡大もこの状況の前では無力であるというのが私の本音かもしれません。