「大物」と「小物」を分別するSNS的な政治に未来はあるか?

自民党復党問題で一番問題だと思うのが、「誓約書」を提出させたこと。

「『違反したら議員辞職』という足枷がないとこの人を信頼できない」と言っているわけだ。それには同感だけど、信頼できない人を同士として迎え入れるべきではない。そもそも、議員の口を縛るのは本末転倒。

自由にモノを言う議員が、議論を戦わせた結果として、たまたま一致する所があれば一つの政党に集まり政策を実現していくのが議員内閣制の本義である。議員の言論に枠をはめるのは、その議員に投票した有権者の意思をないがしろにするということで、いかなる例外的事態でもどんな瑣末なことでも見逃すことはできない。

もちろん、そういう条件を受け入れる方にも問題がある。

そして、情けないのが小泉チルドレン83人の「小物感」。

小泉さんの言動は、今回ばかりは理解しかねるし支持できないが、それでも2点だけは想像できることがある。ひとつは、最初に反射的に出た「それでは参院選で負ける」という発言。どう考えてもこれが小泉さんの本音だろう。後に本音を隠して復党容認に回った意図は私にはどうしても読みとれないが、一つだけ「これかな」と思うことがある。

それは、チルドレンの今回の動きに小泉さんは失望してチルドレンを見限ったのだろうということ。

衆議院議員83人というのは一大勢力である。もちろん、自民党の中の視点では新人議員には力が無いと見なされ、実際に権力はない。しかし、新人党員83人でなくて、国会議員83人である。力もあるし力に応じた責任もある。

ここで素早く勢力を結集し、断固として復党に反対する姿勢を見せるべきであった。

小泉・武部の支持待ちに回ったことが情けない。「こんなことがまかり通るなら、離党してチルドレン新党を作る」と対決する姿勢を見せる人が20人くらいでもいれば、小泉さんの発言は違ったものになっただろうし、そうやって支持率低下の受け皿をきっちり作られては、安倍さんも今回のようなことはできないだろう。

ついこの間まで、小泉・安倍政権は実質的には自民党公明党とチルドレン新党の連立政権であった。支持基盤を分析すればそうなっているだろう。小泉さんのマジックでチルドレン新党が実体を持つ前に勢力を得て、仮想的な政党のまま消滅してしまっただけだ。チ新党は公明党よりは人数が多いのだから、連立与党のメリットとして、勢力以上の発言力を持つことだって可能だったはずだ。

たぶん、「これは正論かもしれないが空想的なほど実態を無視した主張だ」と思う人が多いだろう。私もそう思う。小泉チルドレン83人には、タイゾー君的な「小物感」が致命的なほどつきまとう。

でも、自民党が何で三井住友銀行とか東京三菱銀行とかと同じような「自由・民主党」という党名であるか考えてほしい。私は発足前後の状況には詳しくないが、常識的に考えて、自由党民主党が合併してどちらが本流であるか一致できなかったから「自由民主党」になったのだろう。

自民党は戦後の吉田派・反吉田派、党人派・官僚派、戦前派・戦後派など複雑な対立要素が絡んでおり、決して磐石であるとはいえなかった。保守合同した当時、三木武吉自民党について「10年持てば」と言い、松村は「30年後に崩壊する」と予想した。

そして、この時代にも、戦後のどさくさ紛れに当選した「小物感」たっぷりの「チルドレン」な議員がたくさんいたのではないか。この緊張感のある時代には、「小物」だから「新人議員」だからと、遠慮したり軽視されたりする余裕はなかったはずだ。党名を短くして見せかけの一体感でカッコつける余裕もなかったのだろう。今も残る「自由民主党」という党名は、党員である前にまず議員である国会議員ばかりだった時代の名残りである。

その「自由民主党」で偉そうにしてる「大物議員」とは何かと言えば、今風に言えばSNSでFOFがたくさんいる人のことにすぎない。「大物」と「小物」を区別するのはSNS的な観点で、どちらも同じ一人の国会議員として平等に見る感覚はブログ的な観点だ。

今の政治の一番重要な論点は、SNS的、お歳暮的、年賀状的な、見えない所でのつながりを重視するか、公的な場における発言や行動を基準にした見えるつながりを重視するかである。それは、単に政治の場における合従連衡の問題ではなくて、有権者一人一人が自分の生活の場において、どちらにどれだけの重点を置くかということに連動している。

小泉チルドレンを「小物」として見る視点は、見えない場におけるつながりをたくさん獲得した「大物」を重視する有権者の価値観の反映である。有権者一人一人が、生活の中で、改革の為に見えないつながりのある恩人や自分のバックグラウンドとなっている「大物」を切る決断をしないと、政治は本当の意味で動かないだろう。自分だけ会社でいい子でいるくせに、チルドレンの「小物」ぶりを嘲笑していたら、その人にとって政治とはエンターテイメントであり続けるしかない。