ロゴス批判の高速道路にモヒカン族を押しこむな
モヒカン族のように、言葉やロジックを無邪気に礼賛する考え方ってのは、日本ではマイノリティーですが、西洋ではそれが主流でしかもずっと年季が入っているので、自然とそれに対する批判もたくさんあって、その気になるとすぐに集まります。
- キャラバンからはぐれて震えながら荒野をうろついている一般ピープルからのひとこと
- 東浩紀『存在論的、郵便的』レビュー(kagamiさんのコメントから)
- 松岡正剛の千夜千冊『アメリカン・マインドの終焉』アラン・ブルーム(唯ゲーム論から)
- 「グリゴリの捕縛」に関する公開往復書簡
私が言葉の力を思う時、現実の脅威として念頭に浮かぶのは、局地的なIntensityに過ぎない言葉の力が、あたかも絶対的な力であるかのように人々に対して振舞い、その力が作用する領域の外部に対する想像力を排除するケースだ(puvlushaさん)
言語の問題(ロゴセントリスム)は、言語で語れないことも、言語で語らないとコミュニケートできない、と云う問題があるので、超越性も含めた社会形成と言語の関係は極めて難しい問題ですね…。(kagamiさん)
これはどれも難しいですが、難しいだけでなく中身のある議論です。直接間接にモヒカン族を批判するロジックとして使えるもので、そして、批判の内容も多岐にわたっていて、敵味方いりみだれた抗争劇になっています。敵の敵が味方になることはない。
例えば、「否定神学」(とデリダが呼んでいるもの)は、どちらかと言えばモヒカン族の敵でしょう。それで、デリダ=東浩紀は「否定神学」を宿命のライバルのように批判してるんで、モヒカン族から見て敵の敵ですから味方になってくれるかと思うと、やはり敵です。しかも、上記のレビューの人は、そのデリダ=東浩紀を批判していて、ではこの人はどうかと言えば、やはりモヒカン族にとっては敵だと思います。
モヒカン族は三方から包囲されてて、誰かにパンチ一発でも入れようとすると、パンチを出した手を別の奴に関節技で極められてタップアウトです。攻めることも守ることもできません。
実は、よく考えてみたら私も、そういう流れにのっかって、ロゴス批判的なことを随分書いてました。
それで、自分でこれを見て思うのですが、こういう言説ってのは高速道路化しつつあるなあと思います。つまり、良質なソースが山ほどあるわけです。ちょっと勉強すれば、それらしいことが言えてしまう。
理論と実践がまだ頭の中でうまく噛み合っていないのかもしれないな、と思いつつ。
とpavlushaさんがおしゃるのは、過去の議論を援用したそういう批判があまりにもスイスイ進んでしまうことにかえって違和感を感じていらっしゃるのではないかと私は推測します。そして、そこで一瞬立ち止まる所がpavlushaさんの誠実な所であると思います。
その違和感の中に重要な何かがあると私は思うのですが、ひとつのヒントは、なぜモヒカン族は日本で発生したか?ということではないでしょうか。
そこで、アラン・ブルームが出てくるわけですが、
そこで主たるアメリカの知は、ナチス以後のドイツ思想から"思想"を除去して、そのかわりにナチス以前のドイツ人、とりわけニーチェが見抜いた「神に代わるもの」と、フロイトが見抜いた「理に代わるもの」とを評価するようになった。それを大学で教えてきた。ところが学生たちは、それを"思想"として、ではなく、アメリカ流に"スタイル"にすることを選んだのではないか――。
価値がライフスタイルにあるとは、思想の価値より、会社の価値より、平和の価値より、ライフスタイルのほうがずっとすばらしい価値をあらわしているということだ。つまりアメリカは、すべての価値に勝る価値として、「アメリカというライフスタイル」を選んだということなのである。
このドイツ→アメリカの間に起きたアク抜きと同じようなことが、アメリカ→日本の間でも起きているわけです。ドイツ思想をアメリカがアク抜きしてライフスタイルとしたものを、日本がさらにもう一段階漂白して輸入して、ムラ社会ができているのだと私は思います。
日本は遣唐使の時代から、いや聖徳太子の時代から似たようなことをやっているわけで、そういうアク抜きに関してはアメリカよりずっと巧妙で、しかも蓄積されているものも多い。そこに対する反発としてモヒカン族は生まれたわけですから、思想史的な意味は大きいと思いますよ。
実際、キーワード定義をよく読むとあちこちに私怨が見えてきます。その私怨を取りあげて分析したり批判したりする方が面白い。高速道路の先には渋滞があるという比喩も、そのままこの話にあてはまる(ポストモダン後の思想哲学の停滞)と思いますが、この私怨の中には、それをうち破る鍵が隠れているような気がします。
例えば、何でもキーワード化するのは、言霊思想の逆でしょう。キーワード化することでそれがロジックの部品として活用できるということであれば、それはただのロゴス中心主義ですが、そのような実用性を超えた過剰なキーワード化は、むしろ呪術的な意味づけがあってやってるのかもしれません。それは日本でしか起こり得ないことで、それを説明する語彙はまだ高速道路になってないのですが、むしろそこにこそ可能性があると思います。