ファンタジーの中にある内的現実の中にある外的現実

ハヤオの息子学序章の批評のスタイルについて、id:kagamiさんから、次のような批判的なトラックバックをいただきました。

作品というのは、背景を括弧に入れて観賞するのが基本と思う。
誰が作ったか、どのように作られたか、そういった一切を
括弧に入れて、作品を観賞する、それが基本的な観賞であって、
傑作は誰が作ったものであろうと傑作であり、
駄作は誰が作ったものであろうと駄作である。
傑作や駄作を作った人にどんな個々の理由があろうとも、
それは作品の出来栄え自体とは何の関係もないこと。

これについては全く同感です。作品は、作品単独で評価されるべきだと思います。

私のエントリも、自分としては、作品単独での自分なりの評価を書いたつもりです。あのエントリは、「私はこの作品のこういう所に感動した」ということを自分なりに表現したものです。ただ、自分の感動を表現するにあたっては、「ゲド戦記とその監督が置かれている状況はこのブログを読む人の大半によって共有されている」ということを前提に、それに寄りかかり過ぎた表現になっているかもしれません。作品の内容自体に関する論評はわずかですから、「作者のこういう背景を知ってないとこの作品は完全に味わうことができない」という主張だと受けとられても仕方の無い文章だと思います。

そういう意味で、kagamiさんの批判は当たっている所もあるような気もしますが、「作品単独での評価」ということは、なかなか複雑な問題ですね。kagamiさんが引用されている、フォースター「無名/記名論」は(私はもちろん初耳ですが)、大変面白い論点を含んでいると思います。

私なりに解釈すると、これは「事実を扱う文章は記名として受けとり背景を含めて評価すべき。ファンタジーは無名として背景を括弧に入れて評価すべき」となります。これは、最終的な到達目標を提示したものと見れば明快でその主張には全面的に賛成しますが、現実の行動指針として扱おうとすると、難しい問題、それも非常に現代的な問題に突き当たります。

それは、事実とファンタジーの境目、作品と背景の境目を峻別することは可能だろうか、ということです。

たとえば、Web2.0という言葉は、ある人にとっては客観的に論じることが可能な事実であり、ある人にとっては主観的な内的世界そのままの表現でファンタジーと近いものであると思います。

フォースターが示す批評の作法は、事実とファンタジーそれぞれに対する批評のあり方は示していますが、(kagamiさんの引用部分だけで判断すると)、その区別の仕方、その困難さには触れてないように思います。

また、私はファンタジーというものは、作者の内的現実の対応物だと考えています。そして、内的現実は浅いレベルでは個別のものだけど、深いレベルでは他人の内的現実とからみあっていると。良くできたファンタジーほど深いレベルの内的現実を反映していて、その内的現実には、多くの人の内的現実とのからみあいを通して、社会や時代性が織りこまれていると考えています。

宮崎駿監督やル=グゥインの作品には、そういう意味で時代性や社会性が何重にも織りこまれていて、むしろ作品に没入することで、そういう外的現実との関連が自然と浮き上がってくるもののように感じます。吾郎監督の「ゲド戦記」にもそういう面白さを感じます。

たとえば、前のエントリで触れたアレンの表情について、さらに細かく言えば、技法的な面で次のような葛藤があると思います。

  • 少年少女の顔に皺を書かない駿監督に対し時に皺を活用する吾郎監督
  • 表情は喜怒哀楽のどれかの原色で書く駿監督に対し、怯え+怒り+憑依+αの混合色の表情を使う吾郎監督
  • 動きで表現する駿監督に対し、表情で表現する吾郎監督
  • 連続性による外的リアリティを追求する駿監督に対し断絶性による内的リアリティを追求する吾郎監督
  • (これはほとんど想像ですが)細部まで自分で手を入れる駿監督に対しスタッフの力量に頼る吾郎監督

これらは、全部「従来の宮崎アニメには存在しない要素」です。そして、これらの父の技法の否定について、全て必然性があったのか?と問えば、「否定することに意味も正当性もないが、それでもやらなければならない」という意味で、理由のないアレンの父殺しが重なってきます。それで「父」が死んだのかも定かではない。

これらの技法で表現されているのは、原作のゲド戦記1巻にある、「影」を否認する表層意識と「影」に取りこまれる深層意識の葛藤です。そこに父と子の葛藤が、フラクタルに何重にも重層化することで、独特の緊張感になっていると思います。

その「緊張感」は作品世界の中に存在しているものですが、このように言葉に落としこんだ場合、どこまでが作品に直接対応する内的現実で、どこからが括弧に入れるべき「背景」的要素なのは、簡単には分別できないと私は思います。

もちろん、ファンタジーに取りこまれた「社会」は、簡単に言語化できない深い内的現実を通り抜けたものですから、その回路を尊重しない安易な背景との結びつけは、フォースターの言うように、作品世界の外にある雑音にしかなりません。作品の深さにみあった内的現実と外的現実を結びつける回路を見つけることが、批評する人間にとってのチャレンジになるでしょう。

今振り返ってみると、私は、これまでも、ここに書いたようなことをいろいろ考えていたみたいです。こういうことをいろいろ考えつつ、宮崎アニメやゲド戦記について、かなり強引に自分の外的現実とつなげた批評を書いています。一応、関連エントリを列挙しておきます。