シフトチェンジのある権力論
要旨
実定法と自然法の乖離はYouTubeのような「シフトチェンジ」によって克服するべきである。一時的な不連続を許容することで、社会のあり方の可能性が大きく広がり「権力」という言葉の意味が変わってくる。
引き算の未来
我々はテレビをタダで見ていると勘違いしがちだけど、そうではない。テレビの制作費はスポンサーの広告費でまかなわれ、スポンサーは広告費を消費者に転嫁する。たとえば、車を買うのに100万円払うとしたら、そのうち10万円がテレビ局に回ることになる。
では、テレビが無ければ消費者が宣伝費を負担する必要がなくて、車を100万円でなく90万円で買えるかと言うと、そうはならない。
車の値段は、販売する台数に左右されるから、テレビCMが無かったら100万台売れるものが1万台しか売れないかもしれない、100万台売れる前提なら90万円で売れる車が、1万台しか売れない為に、200万円で売らないといけなくなったりする。
だから、テレビは、スポンサーと消費者(車を買う人)と視聴者(テレビを見る人)それぞれに価値を提供していることになる。
- スポンサーはテレビCMがあることで、事業を拡大して利益を大きくすることができる
- 消費者は、(間接的に10万円広告費を負担するにしても)、200万円の車を100万円で買うことができる
- 視聴者は、タダで(制作費を充分かけた)面白い番組を見ることができる
逆に言えば、テレビが消滅してしまったら、次のようなことになる。
- あらゆる産業の規模が縮小し、価格が高くなる
- 消費者は大半のものを今より高く買わされる
- 視聴者は、テレビという娯楽と文化を失なう
こういうふうに、テレビというメディアが既に存在している社会から、テレビが存在しない社会を想像して、テレビのようなマスメディアの価値を逆算することは簡単だ。
足し算の未来
しかし、YouTubeが動きだしたばかりの世界から、YouTubeが理想的な形でフル稼働した世界を想像して、YouTubeの価値を想像することは難しい。
YouTubeは投稿作品中に著作権の設定された音楽が存在することを自動的に探知する技術を開発したという。Warnerはこのビデオのアップロードを許可するか拒否するか選択することができる。またWarnerに支払うべき著作権料も自動的に計算される。金銭面の詳細は現在明らかにされていないが、音楽ライセンス料金と広告料金の一部を相殺するものと見られている。
これがうまく行けば、YouTubeで配信される動画コンテンツに、製作者が指定するコマーシャルをくっつけることが可能になる。
たとえば、人気のあるコンテンツにパソコンの宣伝をつけてYouTubeで流せば、パソコンが100倍売れて、値段を10分の1に下げることができるかもしれない。
そうすると、今、10万円で売られているパソコンが5万円になって、そこに間接的に負担するコンテンツ制作費2000円をプラスして、52000円で買えるようになる。
- スポンサーはYouTubeCMがあることで、事業を拡大して利益を大きくすることができる
- 消費者は、(間接的に2000円広告費=コンテンツ制作費を負担するにしても)、10万円のパソコンを52000円で買うことができる
- 視聴者は、YouTubeで(制作費を充分かけた)面白いコンテンツを見ることができる
もちろん、この記事の数字はどれもデタラメだけど、テレビCMの方は調査すれば根拠のあるちゃんとした数字にできるのに対して、YouTubeCMの方は想像するしかない。
また、YouTubeによって売れるようになる商品と、YouTubeを通して制作費を獲得する動画コンテンツは、どちらもロングテール的なものだ。ロングテール的なものが潤沢に供給されることのメリットは、想像力がなければ理解することはできない。
足し算の未来には、不確定性と断絶がある。
法律のターゲットは引き算の未来
YouTubeをめぐって法律論議が盛んだけど、法律というのは、二つの意味で「引き算の未来」的な話が得意である。
- 法律は論理的なもので論理は連続を指向する
- 法律は合意を前提としている
たとえば、回収の仕組みが無いまま版権コンテンツがYouTubeにあふれてしまえば、消費者→スポンサー→テレビ局→コンテンツ製作者という回路が失なわれてしまう。
つまり、金をかけて高品質なコンテンツを作成しても、それがテレビ局でなくYouTubeを通して見られてしまい、CMと切り離されてしまえば、スポンサーが番組制作費を負担しても、広告効果が得られない。従って、コンテンツ製作者は資金を得られなくなって、それ以上番組を作ることができなくなる。
テレビ局が無くなったらどうなるかという「引き算の未来」は、法律のターゲットになりやすい。それを防ぐ為の法律改正は、必要性を具体的に示すことができて合意を得やすい。
一方、「足し算の未来」へ向けた話は、法律論になりにくい。
YouTubeのビジネスモデルは不明確だし、認可されたコンテンツが誰にどのように見られるのか予想することは難しいし、それを前提にした合意を得ることはもっと難しい。
YouTubeに限らず、法律の話っていうのは、「引き算の未来」には簡単につながるけど、「足し算の未来」というビジョンは出てこない。だから、私は法律の話は嫌いだし、なかなか頭に入らない。おそらく、このブログを読んでる人が想像しているイメージより、私ははるかに法律の話に暗いと思う。
実定法と自然法
「法」という言葉は、紙に書かれた条文だけを指すのではない。英語の "law" という言う言葉は、引力の法則のことを universal law of gravity というように、自然の中にもともと存在していて、人間が発見したものを指す。つまり、法律は「人間社会の法則」を条文として表現したものである。
こういうニュアンスで法律の根本を論じる時には、人間社会のがもともと内在している法則のことを「自然法」と言い、書下した条文を「実定法」と言う(らしい)。
もちろん、「自然法」によって裁判をすることはできないから、実際に我々が「自然法」を直接見ることはできなくて、「自然法」というのはあくまで「実定法」を通して間接的に見ることしかできない。これは、「一般意思」と「制度」の関係にも似てると思う。
我々が法律を守らなくてはいけないのではなくて、我々が社会契約によって委託した権力が、実定法や制度として運用されているだけのことだ。
だから、理論的には、YouTubeが法律を守っているかどうかは二次的な問題で、本当に問題なのは、YouTubeが提示している「足し算の未来」が、「自然法」や「一般意思」に添っているかどうかである。「足し算の未来」の可能性を考慮する権力と、「引き算の未来」しか認めない権力のどちらに、我々は自分たちの統治を委託したいのか?ということだ。
法律改訂は連続的に作動する
もちろん、理論的には、実定法はそんなことは百も承知で、「私が自然法に添ってないと思った時は、遠慮なく私を改訂していいですよ」と言う。つまり、全ての法律は改正することができて、改正する為の手続きも法律で決められている。その手続き自体、つまり選挙制度に不満があれば、それも変えることができる。
そういう改訂手続きは、実定法にとって免罪符だ。改訂手続きがある限り、実定法は自分が自然法に添っていると言い張ることができる。「(改正できるのにしてないのだから)この法律そのものが自然法や一般意思を実体化してもので、あなたは、この私に権力を委託したのだから、私の言うことを聞きなさい」
言うまでもなくこういう言い草はひどく頭に来るのだけど、何がズレているのかと言うと、問題は改訂を許すかどうかではなくて、実定法が連続性を強要するということなのだ。
つまり、私が「足し算の未来」として書いた、YouTubeが理想的な形に発展した後の世界も、我々がいるこの世界と同じ法律で運用される。著作権者が自分の意思でYouTubeに権利を委託しているのだから、現行の著作権法で実現可能な世界である。テレビの役割がYouTubeに変わるだけのことだ。
しかし、YouTubeの無い世界から、一切の違法行為無しに、「足し算の未来」に辿りつくことはできない。
YouTubeが最初からグレーなことをしないで、つまり、アップロードされた動画を事前にチェックして公開していたら、YouTubeにはあれほどのアクセスは集まらず、従ってワーナーとの提携交渉がうまく行ったとは思えない。そもそも、「提携しないともっとひどいことになるよ」という脅し無しには、交渉のテーブルにつくことさえ不可能だっただろう。
提携しているワーナーさんのコンテンツは無断利用されていないかチェックして広告費を払う。提携していない人達のコンテンツは今まで通り内容チェックに積極関知しないし、もちろんお金も払わない。提携したかったらショバ代とチェックシステム代を払ってね
この脅しの背景には、多数の違法アップロードの黙認(+クレームによって消すことによる名目合法化)があるわけだ。これがなければ、テレビに流れる広告費をYouTubeが奪い取ることを、今のシステムで利益を受けている人たちが看過するわけがない。
もちろん、版権コンテンツを配信するけどまだ回収の仕組みができてない、過渡的なYouTubeを許すような法律改正に多くの人を動員することはできない。
この一時的な無法地帯、つまり空白を許容しなければ、実定法による連続的な社会契約の改訂と、そこから導出可能な「引き算の未来」に甘んずるしかないと、私は思う。
シフトチェンジのある社会契約
これは、社会契約論を「シフトチェンジ」という概念で拡張することで、モデル化できると思う。
実定法とその改訂手続きを遵守している範囲での、社会契約の連続的な変更は、アクセルにたとえられる。それだけで運営される社会は、ギアの無い自動車のようなものだ。アクセルを踏みこめば、ある段階までスピードは上がるけど、それだけでスピードを上げようとしたら、タコメーターが振り切れて、エンジンがヒートアップする。
そこで、一瞬だけ無法地帯を許容することで、ギアチェンジが可能になる。
そのギアチェンジには一定の制限がつくだろう。社会が一瞬だけは慣性で動くだけの信頼を獲得してなければそんなことはできないし、もちろん、クラッチをすぐ戻して、合法的な状態に復帰しないと、車は止まってしまう。
だからYouTubeは、なるべく早く、コンテンツ供給者とユーザのWin-Winモデルを安定稼働させるべきだ。それが稼働してからは、脱法行為は無くして、誰もが法律を守るようにすべきだ。
しかし、一瞬のギアチェンジを許すことで「足し算の未来」が可能になる。連続性だけでは辿りつけない未来が可能になる。
そして、ギアチェンジの最も極端で最も危険なものが「権力のはじまり」、つまり革命である。
これは坂道発信のようなもので、エンストを起こす可能性が高い。でも誰かがギアを入れなければ、法治国家は実現できない。全ての安定稼働している法治国家は、坂道発信というリスクを乗りこえることに成功した権力である。
充分加速している時のシフトチェンジは、坂道発信よりは、はるかに安全だ。
そのような空白を許容するモデルを構築して、自分たちが委託している権力をそのモデルに添って運用すべきだと思う。
誰がいつどういう条件でシフトチェンジをしていいのかということは、もう少し精緻に論じられるべきだろう。でも何より、「足し算の未来」へはシフトチェンジ無しには辿りつけないということを、まず基本的な原則として確認すべきである。
アクセルとブレーキとシフトチェンジの総合力が「権力」である
グーグル権力論が人気無いのは、人は「これおもしろくないよ」という話より「これおもしろいよ」という話のほうに飛びつくという話は、全くその通りだと思う。でも、私は「グーグルが権力だ」と言っているだけだ。それが「おもしろくないよ」という話にすりかわってしまうのは、何故だろうか。
「権力」という言葉は暗くて人気ない言葉だ。この言葉を使うだけで、アクセスが半減する。アニメでも「権力」はたいてい悪役だし、このエントリだってタイトルに「権力」という言葉を入れるかどうか随分迷った。
権力を批判するのは、車にたとえるならブレーキであって、もちろんこれも必要なことだ。ブレーキの無い車はいつか事故るというより、まともに走ることすらできない。
だけど、アクセルを踏みこんでも世の中がうまく回らないから、とにかくブレーキを踏めばいいというのは、団塊的でカッコ悪い発想だと思う。
シフトチェンジによる不連続を伴なう権力の移行を批判する観点と、アクセルによる連続的な権力の行使を批判する観点は違う。だから、このエントリに書いた権力論は、YouTubeを批判したい人にも利用価値があると私は思う。YouTubeのやっていることが悪だとしたら、普通の悪ではない。「権力の創設」に似た不連続を指向する行為である。YouTubeを批判するなら、脱法行為の幇助という観点ではなくて、その不連続性に焦点を当てて批判すべきだろう。また、その批判が建設的なものであろうとするなら、アクセル=連続性の有効性を合わせて示すことで、私がシフトチェンジや「足し算の未来」と呼んでいる概念を批判すべきだと思う。
アクセルとブレーキのみでの権力の運用に、特に若い人たちが絶望していることは、「権力」という言葉の人気の無さで証明されているように私には思える。
アクセル(=実定法や制度)とブレーキ(=権力の監視と批判)とシフトチェンジ(=自然法や一般意思を実現する為に意図的に黙認された脱法行為)が、全部うまく噛み合った時「権力」という言葉は輝きのある言葉になるだろう。