いじめ2.0=再帰的切断とWeb2.0=再帰的接続

こういうエントリを読んでいると、いじめられなかった人自慢というか、いじめを切り抜けて来たよ自慢というか、いじめを切り抜けて来る事が出来ず結果として小学校5年生から成人するくらいまでの長い時間いじめにあってきた私へのいじめなんじゃないか?とルサンチしてしまう。というかいじめでしょ。

Life is beautiful: 「『いじめられっ子』にならないためにしてきたこと体験談」大募集に対する、id:ululunさんの強烈な批判。

この、世界から完全に切断されている感覚が、今のいじめ問題の本質だと思う。

「切断されている同士で体験を共有してつながろう」という呼びかけに対して、「そんなことで再びつながることができる切断は自分の経験している『切断』とは何も関係ない」と拒否する感覚だ。この感覚が、人権を失ったまま生き続けても、そんな命に意味はない。で取りあげた、自殺予告の手紙に通底している。

社会から救済される見込みなく完全に切断されていて、同じく切断している人同士も切断されている所で発生するのが、今のいじめ問題で、これは過去のいじめとは全く違うものだ。せめて「いじめ2.0」と呼ぶべき。

いじめられている人に、呼びかけに応じるか拒否するか選択肢があって、彼がひねくれて後者を選択しているというふうに理解してしまったら、いじめられている人の心には接近できない。つながる為には、彼は嘘をつく必要があって、もちろんその嘘はさらに自分の心に追い討ちをかける。彼には他に選択肢が無いことを理解しないといけないのだ。

そして、いじめられている人にとって、この『切断』の感覚を共有できるのは、自分をいじめている人だけなのだ。彼に手を差しのべる誰もが『切断』の感覚を理解していない。『切断』同士でもつながれない再帰的切断を理解できるのは、彼をいじめている人間だけなのだ。いじめている側も同じ種類の『切断』を感じていて、いじめられている側は、自分の『切断』を切り離して支援者とつながるか、あくまで『切断』の側に立ち、自分をいじめる人間とそれを共有するか、そのどちらかを選ぶことを強いられる。

いじめる側といじめられている側が、この『切断』をめぐって一種の同士的連帯を持っていることが、「いじめ2.0」の悲惨さである。どちらも、世界の中で『切断』の感覚を痛切に求め続けていて、ある日、その同じ『切断』を求めている同士が出会う。しかし、彼らはやっとめぐりあえた同士と友人となって何かを共有することはできない。『切断』の感覚を共有する為には、誰かがいじめられる側に回らなくてはならないのだ。

これと似た再帰性が裏返しで見られるのが、Web2.0における再帰的つながりだ。

いじめAといじめBがあった時、普通の人は両者の共通点に着目して、そこにおいて両者をつなげようとするが、いじめの当事者はそれを拒否し、相違点を強調して両者を切断しようとする。

Web2.0のサイトAとサイトBが、それぞれ別のかたちのつながり、つながりAとつながりBを提示している時、普通の人は両者の相違点に着目して、両者をライバル関係として切断しようとするが、Web2.0の当事者はそれを拒否し、つながりAとつながりBをマッシュアップしようとする。Web2.0は、つながりAとつながりBが相違点においてつながるものと見るのだ。

当事者以外には、再帰性は見えてこない。だから、いじめAといじめBは接続できると思われ、サイトAにおけるつながりAとサイトBにおけるつながりBは競合しつながらないと思われる。相互接続できるようないじめはいじめ1.0で、互いに競合するようなつながりはWeb1.0で、今起きていることは、そんなぬるいものではない。

どちらのこだわりも、普通の人からは奇異なものに見えて、当事者が理解しがたい選択肢を選んでいるように見える。しかし、どちらの当事者も、ある種の必然性につき動かされて、再帰的切断、あるいは、再帰的接続に追いこまれているのだと思う。

この再帰性が、当事者にとって必然性を伴なうリアリティであることを理解しなくてはいけないのだ。