「すいません」が気になる

dokushaさんのブログへのbmpさんのコメント


何のどの部分に同情するかって話なのかもな。心中が重なるところ、例えば俺が、あの映像で重なったのは口をついて「すいません」と言っているところだったしな。

「トホホ」な死:情報戦上の生命 - SOUL for SALE


おそらく、センセーショナルな映像のせいで今は皆の記憶からすっ飛んでいるのかもしれないけど、僕の中から離れないのは、彼の「ごめんなさい」という言葉だ。

「すいません」だったのか「ごめんなさい」だったのかも私にはわからないけど、確かに彼のその瞬間の表情は覚えていて、言われてみると、そこが気になって引っかかってくる。

思考錯誤:人質殺害事件にまつわる覚え書の言葉を借りれば、「繋留点」を持ちにくいポイントがそこにあるように思う。

つまり、この事件をどのような枠組みで認識、評価、記憶しようとしても、彼が「すいません」と言ったあの瞬間の映像だけが、スッポリそこから抜け落ちてしまう。「すいません」と「社会」の間の「繋留点」が持ちにくいわけだが、両者がうまくつながってないとして、実は我々がいるのはむしろ「すいません」の世界だと思う。

戯言@デルピエ朗:自己満足なキーワード


アニメや2次元世界にはまる「おたく」と呼ばれる人たちに「現実との関わり」の重要性を説いたところで「現実」は「記号化」されてしまっている以上、そんなこと言う人間の方が「現実」とはかけ離れた存在であり「おたく」のほうが全然「身体性」をもって世界と関わっていると思う。

「身体性」というのは、彼の「すいません」を気にとめておく感覚ではないだろうか。

【日々是徒然】の2004年11月 5日の所には、

 要するに限界なんですよ。想像力。発想力。思考力。
自分の周囲の現象との摺り合わせで限界。
 何というか、いっぱいいっぱいなので見たくないです。

とあって、この気分もよくわかる。もし、私が私の書きたいことをうまく書けているとしたら、それはそういう現実をしっかり生きている人にとって、なんともあからさま過ぎるような気もする。

でも気になるんです。

すいません。