耐震強度偽装問題に「現実主義」への原理主義的狂信を見る

MOZAIC: 研究しないで方法論ばかりだとジャックは馬鹿になる/職業としての学問の「学際の何がだめなのか」という話が、ソフトウエア工学の駄目さに通じていると思った。


ウェーバーが何故学際は駄目と主張しているのか。それをまず考えてみる。1900年代初頭でも専門馬鹿の弊害は散々指摘されていただろうし、専門性重視の立場からはそれは避けようがないコストだが、ウェーバーがそのコストより重く見積もっているのは実証や反証可能性という正しさ追求の方法である。この方法を会得することによってのみ正しさは追求しうるし、正しさが追求されないと学問としての進歩はない。そしてこの方法を身に付けるためには専門分野でがんばるしかない。


で、専門領域とは、自分の前にこういったことを言ってくれる先人がいるということを意味する。

「正しさを追求する場」が形成されてないことが、ソフトウエア工学がもうひとつモノにならない理由だと思う。

ソフトウエア工学は事の性質上、生まれた時から学際的であって、専門分野、「正しさを追求する方法論」としての足場が持てない定めにある。ソフトを巡る技術と社会の変化は激しく、ソフトウエア工学はそういう流動的な世俗からいかに自分を遮断するかの方法論を持っているべきなのだが、それを持ててないように思う。

ソフトウエア工学がもし、学問であろうとするならば、「アジャイル」なんて怪しげなものの台頭を許しては駄目だ。超俗的な立場から一刀両断にして、「アジャイルなんてものは学問的には何の意味もないバズワードだ」と、瞬殺するくらいの気構えが欲しい。

そして、これと対になるような話が、ZDNet Japan Blog - 八田真行のオープンソース考現学:Old Folksにあって


ストールマンのみならず、彼ら「北極星」が果たしてきた役割というのは、たぶん定量的に計測できるものではないし、私たちが普段意識するようなものでもない。おそらく、彼らを失って初めて分かるような性質のものではないかと思う。あえて言えば、それは彼らが見ている以上生半可なことはできないというようなある種の緊張感だ。

そうそう。オープンソースには独特の緊張感がある。この緊張感が、ソフトウエア工学が持てなかった「自分の前にこういったことを言ってくれる先人」がいる場として、「専門領域」と似たような機能を果たしてきたのではないだろうか。

そこで、話は突然世俗のことに移るのだが、耐震強度偽装の二人の主役、開発会社ヒューザー小嶋進社長(53)と、検査機関イーホームズ藤田東吾社長(44)を比較して、「緊張感」の有無に違いを感じる。

読売社説 :[耐震強度偽装]「根深い背景も見えた参考人質疑」


しかし、問題の根深さをうかがわせる疑惑もチラついた。すでに1年前に姉歯建築士の偽造が確認されたケースがあったのに、隠ぺいされた、という。

asahi.com: イーホームズ社長がコメント「情報源偽りなら全責任」 - 社会


「もし、情報ソースが偽りであった場合に、その機関(日本ERI)の名誉を傷つけたとして問われるならば全面的に責任をとる」

このあたりを見ると、一年前の日本ERIの隠蔽の方がずっと大きな問題だと思う。これを白日の元にさらした藤田社長は、むしろヒーローと呼んでもいいのではないか。

もちろん、天下り会社の経営者がクリーンで正義感だけの人物とは到底思えない。日本ERIの告発も、第一には焦点を自分からそらす為の手段であるだろう。ただ、それによって業界や国交省を敵に回すわけだから、状況の深刻さを認識してないとこの決断はできない。

小嶋社長は、全てを相対的にしか把握できなくて、相対性の中で右往左往している。彼が認識できる危機は常に相対的な危機であって、過去に経験した危機と断絶のある絶対的な危機を、彼は認識できない。だから、行動原理を状況に合わせて変える機会を見失ってしまった。

藤田社長は、過去に経験したことの延長線上にはない危機の中に自分がいることを認識して、何か絶対的な基準に従って決定的な決断をした。

戦後の日本には「絶対的な基準」がなく、本当の意味での学問もない。ストールマンのような人間は、この世に存在しないものとして扱ってきた。だから、ウェーバーが提示した問題に悩む必要が無かった。世俗の相対的な問題だけを扱い、目の前のシステムをスムーズに流すことだけを考えてやってこれたのだ。小嶋社長のような強欲で自分勝手な人間はそうはいないだろうが、彼から強欲さと自分勝手さを取り除くと、そこにはそのような戦後の日本の徹底的な相対性が見えてくる。

むろん、世俗や相対性だけが現実ではない。政治は学問と葛藤し、相対性は絶対性を背景とする。どちらもリアリティであり、片方だけではやっていけない。

私は、小嶋進社長(53)と藤田東吾社長(44)の違いに世代的なものを感じてしまうが、小嶋社長の年代より上の人は、「イデオロギーとしての現実主義」に毒されているように思える。

耐震強度を偽装してコストを下げて暴利を貪るのは、彼らが「現実主義」という宗教の狂信的な信者だからだ。そこで、理想論や正論を言って、偽装に待ったをかけることは、損をするから許せないのではなく、それが彼らの世界観を壊す、背教的行為だから許せないのだ。彼らは、「学問的な正しさ」や「損得抜きの倫理性」というものを、異教のシンボルとして憎悪している。融通のきかない絶対的な正しさを内包する「構造計算」というものの絶対性を憎んでいたのだろう。

彼らは自らの宗教的な信念の為に、限度を越えた偽造をしてしまった。本当に損得だけで現実的に行動していたら、もう少し控え目な偽造にしたはずだ。バレた時に補強ですむくらいの偽造であれば、利益とリスクのバランスが合う。そのような妥協ができないで、とことんやってしまうのは、狂信的な原理主義者の特徴だ。

世の中は金と権力だけで回っているわけではない。金と権力が現実であるのと同等に、愛と理想も現実であり、愛も金と同様に人を動かす力を持っているのだが、なぜか「現実主義者」たちは、そのような現実に目をふさぎ、自分の人生を犠牲にして、金の為だけに尽そうとする。

ウェーバーのように、両方が存在する現実に直面して、その相克に悩むのが、本来の意味で現実的な対応だと思う。

そして、音極道茶室: 耐震強度偽造事件を発見できたのは民間委託の成果に全く同感なのだが、人間の多様性がダイレクトに反映するのが民の良さであって、小島社長と藤田社長の世界観の違いが、彼らが率いる組織の行動に反映する。その多様性を隠蔽するのが官であって、官は成功する時は一様に成功する時は、失敗する時は一様に失敗する。民が民として機能すれば、どのような未知の問題も、多様性の中に解決するチャンスが生まれてくる。

今回見えた問題は、マンションという意味でも建築一般という意味でも、戦後の日本社会という意味でも、氷山の一角であって、その背後にはたくさんの未知の問題がある。未知の問題に対処するには、民の多様性は絶対に必要である。

それと、安易に官に戻すことは、国交省焼け太りを許すことにならないのか?