毎日正気のことばかり書き続けるという狂気

この一種の選別機能はピアグループへ個人を招請する際、金銭的なインセンティブよりも個人の倫理的な側面にその動力源のようなものをもっているのだろう。ドラッカーは「情報化組織では、そこに働く人間一人一人の自己規律が不可欠であり、互いの関係と意思の疎通に関して、一人一人の責任の自覚が必要になるということである」としている。

ウィキノミクスによってマスコラボレーションとして概括される現象の内部では極めて個人の倫理が問われるような現象が起きているし、起きるといえるのでないか。

情報システムの開発では、「遅れているプロジェクトへの要員追加はさらに遅らせるだけだ」という「ブルックスの法則」という経験則があります。つまり、知的作業における多数の共同作業においては、情報の流れを事前に設計しておき、しっかり管理しないとうまくいかない。

ウィキノミクス」という現象においては、なぜこの「ブルックスの法則」に縛られてないような形での共同作業が可能になるのか。そのポイントを、finalventさんは「個人の倫理」に重点を置いて、このように分析しています。

私も、何らかの内発的な動機によって自発的な秩序が形成されることが、「ウィキノミクス」の鍵であると思います。

そして、この動機とは単なる「倫理」ではなく、「倫理」と「狂気」の混じりあった独特のものではないかと。

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「ひょうたん」から「おっぱい」へというすごい流れのまん中に立つという、たぐいまれなる幸運を、私は最近得たのですが、「倫理」と「狂気」の混合物とは、こんなイメージ。

id:nandさんのような文章を書く人はめったにいませんが、めったやたらこんな人がいたら困りますが、これは例外だとしても、やはり「狂気」を抜きにしてネットは語れない。

そもそも正気のエントリしか書かないブロガーが多いけど、正気のことだけを毎日書き続けるのって、それ自体がもう、正気の沙汰ではないような気がします。

というか、id:nandさんの文章は最初ビックリしますが、むしろよく読むとわかりやすく明解。

それと比べると、なぜこうも正気のブログが多いのか、そのほうが謎。

その謎と、「ウィキノミクス」が機能する謎を掛け合せると、謎×謎で符号反転して答がわかってきます。

組織の限界は、「倫理」と「狂気」を動員することが難しい所で、人間の集団が「倫理」と「狂気」を欠いている時には「ブルックスの法則」に制約される。「倫理」と「狂気」が開放されやすいネットという場にはそういう制限がなくて「正気」と「倫理」と「狂気」がいい感じによく混じり合っているということかと。

Richard Stallmanの功績は、GPLというライセンスを発明した事にあるが、80年代から90年代中頃まで、Richardとごく一部の周辺の人達くらいしかGNUの開発に参加していなかった。実際、Richardはインターネットの向う側のプログラマを信用していなかったので、パッチや改良を貰うときにFSF著作権を譲渡するような書類にサインさせていた。彼の人柄かもしれないが、当時バザールは発生したとは言えないと思う。

Linusはそんなことはおかまいなくコードを取り入れた。たったそれだけと言っちゃあそれだけなのだが、その違いが本質的な違いにすらなるというのがバザールモデルの「発見」だとわたしは思う。

GPLの「発明」やバザールモデルの「発見」を「先見の明」と言うのは、典型的な後知恵だと思います。

「狂気」の連鎖ですよこれは。

「コードの自由」に偏執的に執着し、そのためにはプログラマーの自由なんかおかまいなしに強制的に書類にサインさせるRichardの狂気も、Linusの前ではなんだかまともに見えてしまいます。

「向こう側を信頼する」というこの態度は、「狂気」以外の何者でもなく誰にも理解できるもんじゃない。でも、その理解できないことが現実に起こっているんです。

その「狂気」が世界的に伝染した結果が、たくさんの「正気」のブログではないでしょうか。

(追記)

ネタ元というかヒント→void GraphicWizardsLair( void ); // たまに「作家なのにblogにこんな偏った主張を書くなんて」という真面目なツッコミがあるが。オレは偏っていない作家なんて存在意義が薄いと思う

同様に偏ってないブログも存在意義が薄いと思う。(「毎日正気」というのは一種の偏りだということを前提として)