一般大衆と理想の落差を感じたらそれをネタにすればいい
muse-A-muse 2nd さんは、こういうふうにウェブの社会的な側面について、幅広いソースを参照してゆるやかにまとめた記事をよく書かれているので、時々、参考にさせていただいているのですが、その中にこんなつぶやきが
ぼくも基本的な理想としてはessaさんと立場を同じくするんだけど、この違和感はなんなんだろう...。
私はネット上の民主主義の発展について、かなり楽観的です。そこには違和感を感じている人も多いと思います。
それは、ネット上の「一般大衆」や「集団知」が常に正しいと思っているからではありません。ネットの中で起こっている事態と自分の考えや理想がズレていると感じることは、私にもよくあります。
おそらく、その「違和感」の理由は、ズレを感じた時に、私は「これはブログのネタになる」と考えてしまうからだと思います。
たとえば、先日、「みんな力 - ウェブを味方にする技術」の書評を書きましたが、この本を読んだ時に、「ネットの集団知ってやつもまだまだだなあ」と思いました。
この本は、話題の「ウィキノミクス」を本屋で探している時に、たまたま見かけて手に取って、そのまま何の予備知識もなく買ったものですが、読みすすむにつれて、これだけの良い本を自分が知らなかったことに軽い衝撃を受けました。
私は、流し読みも含めて相当な数のブログを購読してますから、世の中の出来事全てが自分のRSSリーダーでわかるとは言わないまでも、少なくともネットに関することで(潜在的に)自分の関心事となることは、ほとんどが、RSSリーダーでキャッチできると思っていました。
私はこれは素晴しい本だと思っていますが、これだけの本について、著者の名前を自分が知らなかった上に、自分が見かける範囲のブログで言及が無かったということが、ショックだったのです。
ソーシャル・ウェブ入門 Google, mixi, ブログ・・・新しいWeb世界の歩き方
この「ソーシャル・ウェブ入門」も一読して素晴しい本だと思いましたが、著者の名前を知りませんでした。そこまでは同じですが、こちらは、Long Tail Worldで見て知ったし、読んでる最中には弾さんの書評も見ました。他にもたくさんのブログで言及されています。
だから「良い本は集団知の中で自然と浮かび上がってくるもんだ」と思って安心していましたが、「みんな力」はそうではなかったということです。まだまだ、全ての領域においてネットが主要な知的活動の場となってないので、良い本がなんでも自動的に浮上してくる段階にはないと思いますが、他ならぬネットに関する本ならば、良書は必ず自分のレーダーに引っかかるという自信が崩れてしまったわけです。
しかし、同時に、「これはいいネタができた」と思いました。素直に内容を紹介すれば、そこそこヒットするエントリになるだろうし、この本や著者の名前をアンカテで初めて知ることになる人も多いだろうし、そうなれば、またアンカテの株が上がる、シメシメというわけです。
「ウィキノミクス」や「ソーシャル・ウェブ入門」や梅田望夫さんの本について、ただ紹介するだけのエントリを書いても、まずそれが評判になることはありません。「ウィキノミクス」も「ソーシャル・ウェブ入門」もいい本だと思うし、何か書きたいとは思っていますが、何か独自の味付けをしないと、自分としてはアンカテの記事にはならないと考えています。
実際、私の「みんな力」の書評のスタイルで、梅田さんの新著について書いたりしたら、おかしいですよね。「梅田望夫というスゴイ人を発見した。とにかく良い本なので、内容を引用する。ここだけ見ても深いことはわかるだろう。とにかくこれは良い、オススメです」みたいに今さら書いたら、「馬鹿か」と思われてしまいます。
実際、これまでに私が梅田さんの著書を取りあげたエントリは、自分としては、非常に趣向を凝らした書き方をしています。
- 陰謀論から談合論へ、そして「縁側の可能性」としての「フューチャリスト宣言」
- しなもん会長のいる所がはてなの本社
- 自分にとっての未知の領域で偉くなった二人が旧友モードに戻ったのはjkondoネタでした
- YourSQL VS Oracle VS GFS
- 「あちら側」にハミ出すアイデンティティ
- アーレントとマックスヴェーバーがもし1973年生まれだったら?
趣向が成功しているかどうかは別として、これらのエントリを書くのにかいた頭の汗の量と、「みんな力」の書評を書くのにかいた量では、全然違います。かなりエネルギーを使わないと、梅田さんの本について書いたエントリは埋没してしまいます。それと比較すると、上記の「みんな力」書評エントリは、省エネでヒットが書けた、という感じです。
だから、ネットの中で大衆と自分の理想が乖離しているのを発見した時に、私は「良し!これで楽にいいネタが書ける」と考えてしまうのです。
私は、比較的アカデミックな本をネタにすることもありますが、そういう記事を書く時も、同じようなことを考えています。
- <帝国>とは共産主義者が書いたもうひとつの悲観的な「WEB進化論」かも
- 統合心理学への道 序章要約
- 食わず嫌い王の野心
- 権威主義と全体主義に挟まれて絶望しない為には
- 汎用のブログ間対話プロトコルとしての「関心相関性」
- スサノオ神話でよむ日本のネット事情
- 自分自身とネットの中にある「テンション」
- 社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」
- 「Antinny事件の後始末問題」にヴェーバーを実践的に応用してみる
これらは、あまり一般的に読まれてない難しい本についての記事ですが、これらの元ネタ、「多くの読者が知らないことであるが、有用であり、ネット等の現代社会特有の問題にも応用できること」を発見した時には、やはり「シメシメ、おいしいネタを見つけたぞ」という気分はあります。
何分、元ネタが難しいので、労力をかけずに軽く書くというわけにはいきませんが、自分独自のアイディアが少ない割には、それなりにオリジナリティのあるエントリになっていると、自分では評価しています。
自分が常にこういう発想をしていると、社会全体が偏向してるとか、良い議論や学説が埋もれているとしても、それが大きな問題になるとは思えなくなります。どこかで誰かがそれをネタにしてブログを書き出して、いつかこのアンカテなんか吹き飛ばされちゃうだろうなと予想するからです。社会の行く末を心配するより、自分のブログの方が心配です。
もちろん、自分が発掘して書いたネタが予想通りに受け入れられるとは限りません。大衆が好む議論の方向が偏っていて、いくら工夫してわかりやすく紹介してもそれが無視されてしまう、そういう風に思うこともあります。
でも、そういう時も、私はそれをネタにすることを考えます。
これはおこがましくも、「俺がせっかくいい記事を書いてるのに、みんなぜんぜん読まないじゃん」と嘆いている記事です。つまり、私が「アーキテクチャー層としてのグーグル」という視点でエントリを書くと、それに限って無視されているという内容です。
私が最初にホームページを書き初めた頃は、アクセス数が一日10件以下でしたから、それと比較すれば「ブクマ数が少ない」なんて嘆くのは非常にぜいたくで傲慢なことだと思います。というか、自分のブログの問題としては、「それぞれ自分の読みたいとこだけ読んでもらえればばいい、それで充分ありがたい」というのが本音ですが、社会問題として、大衆の興味や関心が偏っていて特定の領域が空白となっていることに、私は非常に危機感を持っています。
ただ、危機感を持つと同時に、「それをどうネタにするか」を考えるわけです。
上記の記事では、自分がグーグルについて書いたたくさんの記事を「コミュニティ層としてのグーグル」と「アーキテクチャ層としてのグーグル」に分けて、読者の関心が前者の方向に偏っていることを証明しようとしています。
その為には、記事自体の質や他ブログからの言及などの偶発的な要素によって左右される影響を除いてデータを取らなくてはなりません。
そこで記事の質をコントロールする為の基準として、梅田さんのブックマークを利用しています。「梅田さんがブクマした」ということが、その記事が一定以上の質を持つという証明になっていると仮定して、両者の反応の違いをデータから示そうとしています。
正直言って、個人のブログをまた別の個人のブクマで選別しても、粒の揃ったデータになるわけはなくて、無理というか強引な分析です。これ自体がそれほど大きな意味のある考察であるとは思いません。
しかし、いずれ、こういうことを全てのブログ全体に対して行なえるようになると、私は思っています。
つまり、リンク関係や使用する用語の解析から、世の中で公表されている全てのブログ全体について、なんらかの偏りとか傾向を判別することは、半自動くらいでできるようになると予想しています。
そうなれば、もっと説得力のあるデータによって、上記の記事を書き直すことができるでしょう。
「やれば儲かるものだから、きっと誰かがやる」というのは、こういう社会の偏りを浮かびあがらせるようなシステムです。こういうシステムを作れば、多くのブロガーがこれを利用して解析することで、我々が住む社会の潜在的な問題点がどんどんネタにされていくでしょう。
このように、「衆愚」と理想の落差というのは、個人にとってはブログのネタになることで、企業にとっては、商売のタネになることだと私は考えるのです。
そうすると、基本的には、両者の差は構造的に縮小していくことになるので、おおざっぱに言えば、少なくとも長期的な視点では、ネットによって世の中はどんどん良くなっていくだろうという予想になります。
ただこれは、ネットが全ての問題を解決するということではなくて、今よりはいくらかマシになるだろうということでしかありません。技術的限界というよりは哲学的限界とでも言うべき壁があって、システムで社会の問題が解決するというような考え方は、私はしません。
「私と他者はどのようにも繋がっていない」ということが、「どうしても知りたくない知識」であって、そこから逃げる為に私は「アレですね」と「社会」がわかったようなフリ、私と他者との間を「社会」が接続しているようなフリをして、その「社会」をスペックとして正しいグーグルのアルゴリズムを書くことが可能であるという「錯覚」にしがみつく。
だから、本当は、自分は楽観的なのかどうかはよくわからないのですが、このような発想の仕方をしている所が、「違和感」を感じさせるのではないかと思います。