戦争と製造業と官僚制のみがリアルというパラダイム

その同じ本について、その本が否定的に捉えているとしか思えないことを常日頃披露なさってる方が、つまりその本に恐らくやんわりとDISられてる(と私には思える)人が、好意的ともとれる書評をしている( 「非集中化した私」と「自分探Sier」の葛藤 - アンカテ(Uncategorizable Blog) )のである。

「自分探しが止まらない」は単なる社会批判の本とだけとらえるより、単純に割り切れない入り組んだ表現として受けとめた方が面白いと思う。これについては、id:yamatedolphinさんが引用している深町秋生さんも、次のような感想を読むと同じような感想を持たれたように感じる。

とはいえこの韜晦男の言葉はどこまでが本気でどこまでがネタなのかがわからないのだが

この人はどことなく一力茶屋で遊びほうける大石内蔵助に似ている。

だけど、「批判的言説」として成立してないわけではないし、その面だけでも充分読むに値する本だと思う。

実は自己啓発や自分探しを生んだ正体に対してしっかり討ち入りをしかけている。おそろしいほど精妙な仕事で。

そう読むならば、私は「討ち入りをしかけられた」側になるのだと思う。

それで、こちらの id:yamatedolphin さんからは、以前から何度かご批判を受けている。

ご批判の内容は多岐にわたっているが、ここがポイントではないかと思う。

我ながらちょっとしつこいかもしれない。そんなにヒドイ事が書かれているわけじゃないんだけれども。

なんでこのブログの言う事にいちいち馴染めないのかなあ、と考えるに、きっと時代に添い寝するような言説が嫌いっていうのが自分にはあると思う。

それとここ数回の世代論に関して言えば、若者に対して"僕は他の中年や老年と違って君たちの味方だよ"って言わんばかりのマインドの人があまり好きではない、というのもある。どっか疑わしいのだ。

もちろん、私はこのブログでは誰かに阿って自分が思っていないことを書いたりはしてない。なるべく多くの人に読んでもらいたいとは思っているので、その為の工夫はいろいろするが、その為に自分の主張を曲げたり、自分が真実だと思っていないことを書いたりはしない。

だが、そうとでも考えないと理解しがたいものがこのブログにはあるのだと思う。

つまり、このブログの全体の印象として何か感覚的に受けいれがたいものが最初にあって、そのモヤモヤとした感覚を言語化する為に、きっかけを見つけては論点をいろいろ探っておられるという印象を受けた。ブックマークの断片的なコメント等から判断して、私のブログに同じようなモヤモヤとした悪印象を持っている方が、他にもいるように感じている。

そこで、どこに根本的な対立点があるのか自分なりにいろいろ考えてみて、ひとつ思いついたことがある。

それは、私が世間一般で通用している「これがリアルだ」という合意について、疑いを持っていることだ。

一般的に、次のパラダイムに合致したことが「リアル」とされているのではないかと思う。

  • 戦争=世の中の資源は不足しており、人間は限られた資源を奪いあって生きていくしかない
  • 製造業=資源を一箇所に集め、それを隔離することで価値が生まれる
  • 官僚制=価値を生む為には、指揮命令系統のある組織の中で、何らかの「機能」を果たす存在として貢献する必要がある

世界の原則はこのパラダイムであって、「助けあい」とか「自由、平等、博愛」とかこのパラダイムに反したものは、特定の領域の中で一時的にしか成立しない(だからこそ人為的に努力して守る必要がある)、という考え方だ。

ネットの中では、明らかにこのパラダイムに反したことが起きているのだが、それを「戦争」「製造業」「官僚制」の言葉で語らない限り、それが「リアル」だとは見なされない。仮に、ネットの中で一時的に別の現象が起きているとしても、それはネットが世間一般から隔離されている一時的な段階だけのことで、もし、これからもネットの影響力が拡大していくならば、ネットもやがて「戦争」「製造業」「官僚制」の原則が支配する世界に変質していくはずだ、という見方だ。

たとえば、「オープンソースとは、結局、企業が自社の利益の為に考案した新しい戦略に過ぎない」という観点は、「戦争」「製造業」「官僚制」の原則からはずれたものが長期的に継続するはずがない、という信念に合致している。まさに「戦略」という戦争の用語が使われることが象徴しているが、「奪い合いの特殊な形態」という説明が与えられるまで納得しなかった人は多いと思う。

今後の社会が個人の才覚で切り抜けられるような社会になるなんて、とんでもない夢物語であって、そんなことを若者に信じさせて、さて彼が40過ぎても何も「価値」生み出せなかったら、誰が面倒をみるのだ?

まず、そこのシステム、ベースを作ることがなによりも先だろう。

アンカテの中の人が書いたことは、下手すると完全雇用にあぶれた人にたいして、個人の才覚で、それのみでなんとかせい、と突き放すようなものになりかねないのだ。

頼るべきは個人の才覚ではなくて、社会政策、労働政策。 完全雇用が難しいなら、究極的には雇用されている人から分けてもらう以外にはない。ベーシックインカムにせよ、ワークシェアリングにせよ。

アンカテの中の人、のような人の取り分を少しづつ下げていくしか道は残されていないと私には思える。

世の中は、「戦争」「製造業」「官僚制」の世界であって、誰もが生き残る為にはそこに適応するしかない。そして、私の主張はそれを惑わし混乱させるものだ、ということではないかと思う。

ここで、id:yamatedolphinさんが「システム、ベース」と呼ぶものは、「資源を一箇所に集めて、機能分散したタテ割りの組織を作り、そこに明確な『機能』を持つ人間として所属する」ということではないかと思う。あるいは、「戦争」「製造業」「官僚制」の世界から隔離された別の世界を作るしか方法はないという話。

「自分探し」という現象は、多くの若者が無意識的に「戦争」「製造業」「官僚制」パラダイムを拒否していることのように私には思える。

私は、このパラダイムを(唯一無二の原則としては)信じていないので、それを拒否して別の可能性を求めることには賛成である。ただ、それが着地点を見出せないまま迷走し続けるのは、社会にとっても個人にとっても不幸なことであると思う。また、(これは速水さんの本を読んで再認識した部分も大きいが)、その迷走が多くの社会問題につながっているということも事実であると思う。

「戦争」「製造業」「官僚制」パラダイムを信じる人は、若者にこのパラダイムを受け入れさせることしか着地点が無いと考えるのだろうが、私はむしろ、社会全体としてこれを崩していくべきだと考える。

  • 世の中の資源は不足してない、分配が滞っているだけだ
  • 価値はネットワークから生まれるので、なるべく多くの資源を共有すべき
  • 自分が何で社会に貢献すべきかは自分が決めるべき(自分以外には最適な答が出せない)

という世界に移行しつつあるので、むしろなるべく早くこれに適応するべきだと考える。というか、本当は両者をともに相対化して、うまく使い分けるのがベストだと思うが、まずは今通用している「リアル」という考え方を壊すのが第一優先だと考えている。

これを「パラダイム」と呼ぶのは、どちらの考え方でも、その原則に従って世界を見れば、その原則が成立しているように見えてくるからだ。そして、その原則を共有してない人には、その世界が「リアル」には見えてこないからだ。見えたとしても絶対にそれを「リアル」とは呼びたくないだろう。