「非集中化した私」と「自分探Sier」の葛藤
本には、著者の主観から語る本と客観的なスタンスで語る本がある。ここでは仮に前者を文学、後者をサーベイと呼ぶことにするが、あらゆる本には両方の要素が含まれている。
ただ、大半の本は、文学/サーベイという二つの要素のうち、便宜的にどちらかを強調される。売り方としてそうなるし、読む方もそれを受けいれて、文学として読むかサーベイとして読むか、どちらかの読み方をする。便宜ではあるが、便宜が通用する範囲が大きいので、本は文学かサーベイのどちらか片一方であるというのもほとんど事実でもあった。
しかし、最近の世の中は、主観からも客観からもスルリと逃げてしまう。「今」を語るには、この両者が複雑に入り交じったスタイルをとることが必要とされる。
「ウェブ時代を行く」等が典型だが、梅田望夫さんの本は表面的に見ると、人生訓を述べる主観の本のような顔をしている。でも、その背後には、偏執狂的とも言える「名言コレクター」梅田さんの膨大なデータがあって、そこに述べられている結論には、データに裏打ちされた客観に限りなく近いものがある。
梅田さんの新しい本の制作秘話には、その「名言コレクター」のデータ量に翻弄される編集サイドの様子が生々しく出ていて面白い。今度の本はどちらかと言うと「サーベイ」的な部分を表に出した本になるのかもしれないが、もちろん、それがいかに広くデータを集めて実証的な論証があったとしても、学問として成立するような本当の客観になるわけではなくて、そこには、梅田さんの主観がある。
文学であると同時にサーベイであるという複雑なスタンスは、「今」を語る為には必然的に要求されてくるのではないかと思う。
この本は、表面的に見ると、上の分類で言えばサーベイに見える。
私なりにまとめると、「社会によって強制された『自分探し』とそれに翻弄される若者たち」という視点から、それにまつわる社会現象を幅広く集めて分析した本だ。宮台さんの「さまよえる良心」とか「PR会社」とか「経済のネオリベ化にとって都合の良い若者」と言った、個々の現象の背後にある深層の構造を分析する観点も出てくるが、そういうものには深入りすることなく、あっさりと終わらせている。
新書のページ数以上の素材を集めているが、そのボリュームがバランスが良くまとまっていて、まさに理想的な「サーベイ」であると思う。
ただ、手際良く分析される同世代の若者たちの中に、著者自身がいる。
そのことは「あとがき」にちょっとだけ触れられているだけで、本文の中では、著者は客観的に分析する人として出演している。でも、その分析する人が観ている側にも著者自身がいる。あらゆる場面で斬る側と斬られる側の一人二役を演じている(けど、斬られる側は他者に見えるような演出があって、最後に楽屋裏をあえて晒している)。
そこに着目すると、ちょっとひねくれた表現方法を取っているが、むしろこれは典型的な文学である。
「自分探し」というよりどころを、どうしようもなく必要としながら、それをうまく利用し搾取する企業社会のシステムも見えてしまい、その狭間に立ち悩む青春群像が見えてこなくもない。
「ひねくれたことをするなあ」と思うが、そうでもしないと全くピント外れになってしまうのが、この時代というものなのだと思う。
読みごたえがあると言うかひそかな毒を持っていると言うか、あっさりしているようで深い構造を持った簡単には読めない本であると私は感じた。
(おまけ)
書評は以上で終わりで、タイトルの意味を解説します。
この本にたくさん出てくる「強制された『自分探し』をうまく利益につなげて搾取する企業」を指す言葉として「自分探SIer」という言葉を思いつきましたがどうでしょうか(読み方は「ジブンサガシーアー」)。SIerという言葉はいろんなニュアンスで使われますが、「IT土方の元締め」みたいな否定的なニュアンスで使われることもあるので、それに引っかけたものです。
それと、「主観と客観の混合というスタンスがある種の必然である」という意味で、次のコラムもつながるかなと思いました。
ウェブ1.0は集中化した彼ら、ウェブ2.0は分散化したわれわれ。そしてウェブ3.0は非集中化したわたし
果たして主観にも客観にも頼らない「非集中化した私」は、現代社会のあらゆる所に複雑に張り巡らされた「自分探SIer」の罠から逃れることができるのでしょうか!
あと当ブログの関連記事として、防御壁の流動化にまつわるアンチパターン - アンカテ(Uncategorizable Blog)。