インテグラル理論とグーグルとケータイ小説
(8/18 追記)
引用した4象限の図を修正しました。詳しくは本文参照。
(追記終わり)
今まで読んだどの本よりもこの本は、グーグルの限界について明確に語っている。
と言っても、これはネットやビジネスについての本ではなくて、ケン・ウィルバーの「インテグラル理論」という考え方について、わかりやすく解説した本だ。グーグルのことは一言も書かれてないが、この本で解説されている考え方をあてはめると、それがよくわかるのだ。
「インテグラル理論」では、古今東西のあらゆる人間の営みを次の4つの象限に分けて考える。
縦は集団か個人かという分類で、横が「私」が関係する主観的な領域か、「それ」として扱える客観的な領域かという分類だ。これは、普通は学問のジャンルを整理する表なのだが、ここにネットに関連する企業をあてはめてみる。
グーグルの検索エンジンは、Webページという対象の関係(リンク)に注目して世界を整理する実践的な試みなので、「それら」の右下象限に該当する。
アップルは「美」にとことんこだわる企業で、これは、左上の「私」の領域に入ると思う。
twitterをはじめとするソーシャルメディアは、集団として人間を扱うが、グーグルのように「対象」と見るのではなくて、人間にとっての「意味」を考慮するので、左下の「私たち」だ。
日本のメーカーは、基本的にスペック指向が強く、「美」やユーザ体験のような主観的な要素を考慮しないし、社会的コンテキストを背景にした製品の位置づけも苦手なので、右上の「それ」に入るだろう。
四象限のモデルでは、それぞれの象限ごとに評価の基準が違うが、どれが優れているとか劣っているという上下関係のあるものではなく、4つの価値観はどれも対等なものだと言う。残念ながら、人間はどうしても、この中の特定の一つの領域に執着して、その観点から、違う領域にあるものを批判しがちである。
グーグルが「Don't be evil」という無邪気なことを言ってしまうのは、本来「私たち」の問題である正義や正当性の世界にある複雑さ、葛藤、歴史といったものに無知であり無意識であるからだと思う。
あるいは、アップルがiPhone4のアンテナ問題で、奇妙な詭弁を弄するのは、製品を分解して特定の機能ごとに要件を検討する、他の会社ではあたりまえのことができてないからだ。
そして、今、焦点となっているのは、グーグルが、電子出版やソーシャルメディアという「私たち」の問題として扱うべき領域に進出しようとしていることだ。
「私たち」の領域では、人間にとっての意味が重要となる。その点、twitterはよくわかっていて、RTやメンション(@essa)やハッシュタグといった機能の追加にあたっては、ユーザの間で自然発生的に起こった使用法やニーズを、なるべくそのままの形でシステムの中に取り込もうとしている。ただの短いテキストの中に集団的に起こる意味を大事にしているのだ。
ソーシャルメディアも検索も、膨大な数のノードとそれらをつなぐリンクがあることでは同等だが、ノードが「意味」を理解する人間であるか、対象(「それら」)として扱えるWebページであるかという所が違う。
「それら」の世界では効率や効果が重要になるのに対して、「意味」のある世界では、多様性が重要になる。
twitterのユーザは、たくさんのツィートを読んで、その内容を、好きか嫌いか面白いか面白くないかという主観的な基準で判定して、フォローする相手を決める。その結果、たくさんのクラスタができる。
ページランクで、あらゆるジャンルをまたがった「有用な」サイトのランキング(数値で一意に並べられる上下関係)を作るグーグルとは、対照的だ。
最近、twitterは、「アノテーション」という新しい機能を開発中であることを発表した。これは、「セマンティックWeb」という昔からある考え方の変奏曲のようなものだが、ひとつ画期的なのは、語彙を自分で定義しないで、ユーザとベンダーの自然淘汰にまかせるとしたことだ。
たとえば、多くのつぶやきは、何かのURLに対して発せられる。アノテーションを使うと、これが、(Link: http:/d.hatena.ne.jp/essa/) というような形式で、140文字の外にある情報にすることができる。
しかし、URLを入れる所を、LinkにするのかURLにするのかhrefにするのか、普通だったら最初に決めるのだが、twitterのアノテーションでは決めないのだ。
たとえば、同じ特定URLに対するつぶやきでも、そのページが好きなのか嫌いなのかで、キーとなる言葉を分ける人がいるかもしれない。あるいは、本やDVDについて議論する時、同じ作品IDでもクラスタごとに違うキーを使い、それぞれ別の世界として棲み分けた方が平和になるのかもしれない。
そういう可能性を、ユーザの相互作用から自然発生的に起こってくる「意味」にゆだねようというのが、twitterの一貫した方針で、これは、「私たち」の領域へのアプローチとしては賢明なやり方だろう。
同じセマンティックWebでも、特定の一つのページの書き方に注目する右上象限のアプローチだったら、最初に形式やボキャブラリを厳密に定義しようとするだろう。計算の効率性や効果を重要視する右下象限のアプローチならば、曖昧さは許容するかもしれないが、やはり、ユーザの意向より、「それら」として扱えるデータやテキストの内容に目がいってしまうだろう。
このように、twitterの急速な成長は、「インテグラル理論」の観点から、自社の活動範囲の象限に添ったアプローチをしていると言うことができる。ついでに言えば、大量のサーバ群の運用は、「それら」の領域なので、自社で無理に mobile me を運用して失敗したアップルより、検索の機能を外部にまかせたtwitterの方が、自社のことをよくわかっている、とも言えるかもしれない。*2
もうひとつ、これでよくわかったのがケータイ小説のことだ。
ケータイ小説を、左上象限の文学作品として見たら、幼稚で未熟な文学としか言えないのだが、ケータイ小説は実は間主観的な「私たち」の領域の現象であると考えると、その意味がよくわかる。
この本で、佐々木俊尚氏は、あるケータイ小説作家の次の言葉を引用している。
ケータイ小説作家たちは、いかにして自分の体験が読者たちにつながるかを目指しているのであって、すばらしい表現や新しい世界観を切り開こうとしている純文学を目指す人とはそこが決定的に違う
佐々木さんは、インフォコモンズ (講談社BIZ) や フラット革命 の頃から、一貫して、ネットによって生まれる新しい「私たち」の可能性を探っている。そのアプローチは、とにかく対象となる人たちのナマの声をたくさん集めるという方法だ。
「それら」のグーグル的な領域ならば、アーキテクチャを解剖したりデータを集めるという客観性のアプローチの方が、現象を包括的に捉えられるが、「私たち」の領域では、やなり人間の声が必要なのだと思う。
ネットは、本当にいろいろな立場の人が全部一緒になってぶつかる領域だ。そこではありとあらゆるレベルでカオスが起きているが、特定の観点からのアプローチでは、どうしても無意味で不毛な議論となりやすいし、大事なものを見落してしまう。
昔から、それを整理する枠組みとして「インテグラル理論」は非常に重要だと思っていたのだが、本家のケン・ウィルバーは何しろ超博識でいろんな分野にまたがった難しい本ばかり書いている。自分もよくわからないし、なかなか気軽に人に勧められる本が無かった。
そういう意味で、この「インテグラル理論入門」は平易にポイントがまとめられていて、非常に読みやすく安心して勧められる。
上記の四象限のモデルは、この本のごく一部で、他にも、非可逆的なレベルと可逆的なステートの区別とか、複数の発達ラインという図式とか、衝突をさばく為に使える地図がもりだくさんである。とりあえず一読しておいて、何か話がかみ合わないと思ったら、すぐこれを広げて両者を接続する方法が無いか考えるというような方法で、実用書的に使える本なのではないかと思う。