「公」というものを制御不能であるけど善なるものとして認識する

アレントは、人間の活動領域を「公的領域」と「私的領域」に分け、現代社会の問題を「私的領域」による「公的領域」の侵蝕であるととらえた。

「私的領域」とは、人間の生存に必要な生産活動を行う場ということである。アレントアテネ都市国家における「家」を「私的領域」の代表としたが、現代に生きる我々は企業をイメージするのがいいと思う。生産活動にはエンジニアリングと指揮命令系統が必要である。この中では、人間は命じられた通りに言いつけられた仕事を確実にこなさなくてはならない。

「公的領域」とは政治の場であるが、政治はエンジニアリングや指揮命令系統ではなく、対等な立場の人間同士の議論によって行うべきだというのがアレントの主張である。人間同士の議論には、必然的に予測できない部分があって、エンジニアリングによって事前にシステムを決定することはできない。そこには別の方法論が必要であり、指揮命令系統ではなく個々の人間が自分の判断で動き発言する余地を残しておかなくてはならない。

企業が政治の領域に干渉したり、政党が党員同士の議論でなくエンジニアリングと指揮命令系統によって動かされるようになることは、「公的領域」が「私的領域」の論理で動かされることで、あってはならないこととした。

アレントは、20世紀の世界の問題は「私的領域の拡大と公的領域の侵蝕」であるとしたのだが、21世紀には逆の問題が起きつつあるのではないだろうか。

つまり、ネットは本質的に「公的領域」であって、ネットが生活や社会の基盤として重要性を増すにつれて、「公的領域の拡大」と「公的領域による私的領域への侵蝕」が起きているのである。

ここに書いたように、私生活の中でネットを利用した場合に、そのデジタルな痕跡つまりライフログが公共空間に置かれることになる。それはネットの全ユーザの共有物となり、ユーザの総意によって利用される。

直感的に「これはとんでもないことになるぞ」と思う人は多いと思うが、同時に誰をどのように批判したらいいのか戸惑うのではないか。

それは、無意識のうちに、20世紀的な「私的領域の拡大と公的領域の侵蝕」の枠組で問題をとらえてしまうからである。つまり、「グーグルという、私的領域の論理、利害によって動く組織が公的空間を支配する」という問題。この立場に立てば、グーグルという企業の行動を制限し、公的領域に関わらないようにすればいいということになる。

しかし、それをしたら別の企業が同じことをして、それも禁止したら、草の根やアングラでP2Pによって結局同じようなことが行われるようになるだろう。

時間稼ぎも重要であるが、20世紀的な対応では時間稼ぎにしかならないことを認識しておくべきだ。

20世紀の技術や社会経済的な構造は、私的領域を拡大するように作用した。だから、公的領域の侵蝕が問題となったのだ。それと逆にネットはトレンドとして公的領域を拡大するように作用する。

プライバシーは暴かれ全てが晒されていくのだが、誰もが平等に晒され、晒されたプライバシーを私的に悪用することは難しくなる。悪用されないことが確実に保証されると仮定して、どうしても守るべきプライバシーとは何なのか。

公的領域の拡大に備え、それに適応する準備をするとともに、どうしても守らなくてはいけない私的領域とは何なのか、そこを考えておくべきだと思う。

もちろん、絶対必要なプライバシーというものはある。それを守る為には適切な範囲設定が必要であり、適切に境界線を引くためには、公的領域が拡大しているトレンドを背景として考える必要があるだろう。

我々が「公」という言葉で思い浮かべるものは、20世紀的な私的領域の論理に侵蝕された「公」であり、実はそれはむしろ「私」なのである。新しい「公」は本物の「公」であり、別の論理によって動く。「私」が持っていた悪の性質は持ってないが、同時に「私」が持っていた制御可能性も失っている。制御不能な善である「公」というものにどう備えるのか、という問題だと思う。