「まとも」への解毒剤としてのウィルバー

ケン・ウィルバーとは何者かということをものすごく乱暴に言うと、「賢い宗教とは何か」ということを研究している人である。

現代は、賢い科学とアホな宗教の支配する時代である。今の科学は随分賢いが、昔の科学は、占星術錬金術のようなアホな科学だった。科学はそこから随分発展したが、宗教はその時のアホなレベルで留まっている。

本当だったら、もっと賢い宗教が出て来るべきなのだが、アホな宗教が氾濫しているので、宗教はそもそも全部アホだと思う人が多くて、「賢い宗教」とは何かをみんなイメージできない。

「賢い宗教」とは科学的な宗教かと言うとそうではない。科学にもアホな科学と賢い科学があるし、そもそも科学とは宗教とは別のジャンルである。

ウィルバーは、この乱暴な話に出てくる「アホ」「賢い」とか「別のジャンル」ということを徹底的に研究した。

「アホ」とか「賢い」とかおおざっぱな言葉で言うと話がまとまらないので、「発達段階(stage)」という抽象的な言い方をした。

自転車に乗るとか泳ぐということは、一回覚えると、忘れることの方が難しい。人間のすることには、そういう、一回覚えると簡単には元に戻らないことがある。そして、Bが起こる前に必ずAが起こるという順番がある。そういう非可逆的で順番があるものを全部「発達段階(stage)」という考え方で整理したのだ。

宗教には、どの宗教にも、そういう人間の発達段階の見取り図みたいなものがあって、いろんな宗教で突き合せをすると、どれも結構似たようなことを言っている。そして、それに、マズローとかの現代の発達心理学の最前線の研究をかぶせて、一番大きな見取り図を書いた。

それで、こういうことを整理する上では、ジャンルの仕訳も重要だ。国語で5を取る人が算数も得意とは限らないように、人間の営みにはいろいろな科目がある。そういう科目を整理して、四象限の図とか、多重発達ラインという考え方にまとめた。

その見取り図の大事なポイントは、「アホ」→「ふつう」→「賢い」とはならない、ということだ。どちらかと言うと、人間は「アホ」→「まとも」→「ぶっとび」という形で成長する。たとえば、オープンソースに関わる人は「ぶっとび」系が多い。

ウィルバーの言葉で言うと、「前慣習的段階」→「慣習的段階」→「後慣習的段階」だ。「まとも(慣習的段階)」とは、合理的な考え方ができることや、自分が属する集団のルールに従えることだ。現代人の多くはこの段階なのだが、「まとも」以前の「アホ」と「まとも」を超越した「ぶっとび」のごっちゃにすることを、「プレとポストの混同」と言って、これがいろんなトラブルの種になっていると言う。

もう一つのポイントは、発達段階には非可逆性や順序が確かにあるけど、だからと言って、誰もが無理に成長する必要はないということだ。ウィルバーが「アホ」と言わずに「前慣習的段階」という言葉を使うのは、どっちが偉いという話じゃないことを強調する為だと思う。

「前慣習的段階」のアホな宗教にしっくりくる人は、それで全然かまわない。最近のスピリチャルブームの中にもアホな宗教っぽいものがたくさんあるけど、そういうもの自体は無害だ。

問題は、自然と成長して「まとも」の限界を感じて次に行きたい人がたくさんいるのに、そういう人が収まる場所が無いことだ。そういう人は、「まとも」では満足できないが、これを否定すると「アホ」に退行するしかなくなる。

UCLAが最近行なった調査によれば、アメリカの大学生の79%が、スピリチャリティを、その人生のなかで大事なことと考え、4人のうち3人までが祈りを捧げるという!しかし、彼らは、その信仰を教授と話すことができない。教授たちは、大体において「オレンジ(引用者注: まとも)」から「グリーン(引用者注:まともからちょっとだけぶっとび寄り)」であるから、学生をバカにするだろう。しかし学生のほうも、もはや、その「アンバー(アホ)」の信条の神話的で、自民族、自集団中心的なヴァージョンには満足できない。(中略)これは、恐しい選択である。「アンバー」で生きてキリストを信じるのか、「オレンジ」に意向してキリストを捨てるのか。(中略)「オレンジ」のリベラルな教育は、少なくとも現在の形で言えば、スリチャリティを抑圧する。確かにこれは残酷な選択である。(インテグラル・スピリチャリティP268)

「究極の問い」から人間は簡単に自由になることはできない。

「そもそも自分は何のために生きているのか?」という真摯な問いかけに、「そんなくだらんこと言ってないで、メシ食って学校行け」とか言うのはごまかしだ。ウィルバーの言葉で言うと象限をずらした逃げだ。しかし、同じセリフでも、きちんと相手の目を見て真正面から答えたら、それはスピリチャリティだ。

ウィルバーは、宗教と心理学の統合にその答があると言う。

ここで注意すべき点は、ウィルバーのように宗教を研究した人は、これまでほとんどいなかったことだ。宗教の経典や文化や組織でなく、宗教体験そのものを研究した人は少ない。

宗教体験を外から研究するのは、アインシュタインの伝記や名言集を読んでアインシュタインを理解したと思うようなものだ。それも無意味とは言えないが、アインシュタインを知りたければ、相対性理論の数式を理解して、理論そのものの革新性を物理学者の目で内側から見る必要があるだろう。

数学は、それも相対性理論のレベルの数学は、誰にでも理解できるものではないが、ごく限られた天才以外には触れることができない、というようなものでもない。

ウィルバーは、論文にリファレンスをきっちりつける人文系の正統的な学者であると同時に、瞑想の実践者でもある。そして、自分の瞑想の体験も考慮して、宗教に迫る方法論を検討した。

私には、相対性理論の数式はわからないが、相対性理論がわかる人とわからない人の違いはなんとなくわかる。数式のレベルで理解している人は、言うことというか雰囲気が違う。応用力が違う。アナロジーのお話レベルでしか理解してない人は、自分がたまたま聞いたそのアナロジーに執着するので、応用がきかない。

ウィルバーが宗教やスピリチャリティを語ると、数学がわかる人が相対性理論について言うのと似たようなものを感じる。

現代は、数学を勉強してアインシュタインに迫る道は整備されているし、そこに至った上でアインシュタインについて何か言う人はたくさんいる。その専門家のコミュニティに、数学がわからないモグリが入りこんで、アインシュタインについてわかったようなことを言えば、だいたいハジき出される。

それに対して、瞑想を実践してブッダに迫る道は整備されてない。そこがわかってないのに、ブッダについてわかったようなことを言う人がいっぱいいて、惑わされる。そこには、頼れる専門家のコミュニティはない。

アインシュタインと同等レベルでなくても相対性理論を数式レベルで理解している人はたくさんいるだろう。ウィルバーブッダに対する理解も同じようなものだと思う。ウィルバーブッダと同じレベルではないし本人もそういうことは言ってない。ただ、瞑想を実践する人にしかわからない境地というものがあって、ブッダがいかに凄い人だったのか本当にわかるのは、ウィルバーのような人だ(アインシュタインの凄さが本当にわかるのは数学がわかる人であるのと同じように)。

ウィルバーなら、宗教を、体験という側面と文化という側面に分けて語れる。文化としての仏教は東洋がオリジナルで25世紀の歴史はあるものの、基本的に過去のローカルな出来事だ。しかし、それとは別に、ブッダの体験の中には純粋な真理があって、それはインド、中国、日本等の文化とは関係ない。世界のどこでも通用するものだし、時間とも関係なくいつの時代にも同じような通用するものだ。

ほとんど宗教の中核にある、その純粋な「私」の体験を、ふつうの人間の日々の生活の中にあるスピリチャリティと、発達過程という線でつなげたのがウィルバーである。そこには、「アホ」でも「まとも」でも収まらない人間が、どういう道を歩んで「賢い」宗教にたどりつくのかという地図がある。

それと「究極の問い」にきちんと答えるには、「究極でない問い」にもきちんと答える必要がある。そこもウィルバーが頑張っている所だ。

そこが整理されてないと、宗教的体験方面で偉い人なら、政治でも科学でも何でも口を出していいことになってしまう。実際、違うジャンルで幼稚なことを言う人はたくさんいるのだが、だからと言って、そういう人の体験という側面まで否定しようとすると、スピリチャリティの発達ラインの全否定になってしまう。そこが難しい所だ。

「ぶっとび」の人を冷笑するのは、正常な防衛機構だ。冷笑しておかないと、自分の中の「まとも」な部分や「まとも」に近づこうとしている部分を壊されるケースがある。しかし、注意すべき点は、自分の中に「まとも」を超えて「ぶっとび」を模索している部分もあって、そこが他人を冷笑することによって塞がれてしまうことだ。発達ラインはたくさんあって、ほとんどの人の中に、「アホ」と「まとも」と「ぶっとび」が同居している。

自分の中の「ぶっとび」を塞いでおさまるならそれでもよいが、たいてい、そういう場合は、「まとも」の使い方がまともでなくなる。つまり、合理性に非合理的に執着したり、非合理性への攻撃が度を超えて、合理的、建設的でなくなったりする。

ウィルバーの本は難しいが、そういう時には、一度じっくり読んでみるといいと思う。

インテグラル・スピリチュアリティ
インテグラル・スピリチュアリティ



一日一チベットリンクWORLD LIST : ダライ・ラマの言葉