「インテグラル・スピリチャリティ」書評
エンジニアマインド連載の第7回が公開されまています。
ネットの中で何かをするということは,ある意味で負けることが決まっている勝負に挑むようなものです。議論の勝ち負けだけではなく,何かのメッセージを伝えたいと思って,それがうまく伝わらなかったら「負け」と考えると,負けないことは難しい。
それは,1万人対1人で「ウォーリーを探せ」をやるようなものです。
ある主張の中の論理の穴や,あるメッセージの中に含まれた誤解の可能性がウォーリーだとしましょう。書く側,発信する側は一人きりでその穴を探して埋めていくわけですが,読む側,受け取る側は何千人,何万人といて,そのうち誰かは先にウォーリーを見つけてしまうわけです。
だから,ネットの中でメッセージを発するということは,必然的に負けが運命づけられたゲームなのです。
今回は、こんなテーマを インテグラル・スピリチュアリティ という本を手掛かりにして考えてみました。
それで、この本は実に興味深い本で、上記の記事ではそのごく一部しか触れていないので、この本の内容についてもう少し補足してみたいと思います。
前近代的宗教と発達ラインとしてのスピリチャリティの混同
まず、一番重要だと思うのが、現代における科学と宗教の役割分担の混乱はどこから来ているのかという話。
現代では、これが究極の関心であると思われる事項に関して回答を与えるのは暗黙のうちに科学であるとされている。科学に対する究極的な信仰と、それに対する忠誠が起こった。今や、究極的なリアリティは質量とエネルギーのような項目であると感じられた。質量もエネルギーも、創造も破壊もされないもので、永遠であり、それが究極のリアリティであり、したがって遍く存在するものである、などなど。「質量」と「エネルギー」こそがたった二つの神の名なのだ!(P276)
科学が真実に迫るための一つの方法論ではなくて、信仰の対象になっているのは、なぜでしょうか。
科学は、自分に対して正直であるときは、神に関しては不可知論、すなわち究極的な質問には沈黙を守ってきたのである。(P277)
それは、科学に問題があるのではなくて、科学が本来背負うべきではない別の役割を背負わされていることに問題があるとウィルバーは言います。
そこまではよくある論ですが、ウィルバーは、その混乱が発生した原因を掘り下げていき、次のように説明します。
近代性が意味しているのは、芸術、科学、倫理の3つの分野が分化した、ということである。これらは、もはや神話的な中世のようには融合しておらず、それぞれの領域において、独自の真実、真理を探求するようになった。(P271)
3つの領域に分化して、それぞれが独自の価値判断基準を持てるようになったことは良かったのですが、一つ忘れ物があった。それが「究極の質問」に答えるべき「スピリチャリティ」という価値領域だったとウィルバーは言います。
本来、そこに出現すべきだったのは、3つではなく、4つに分化された価値領域だった。(中略)スピリチャリティは、神話段階で凍結されてしまったのである。そして、この神話段階のスピリチャリティが、スピリチャリティ一般と混同されたのだった。
つまり、多くの先進国に住む人、特に教育を受けた人にとっては、口に出さないまでも宗教は一段階下のものとみなされがちです。宗教の言うことは幼稚だし、自分の文化中心のものの見方から脱してなくて、人の自由を縛る傾向が強い。きちんと教育を受けた人間がそういうことを気にするのは(社会的な儀礼としては必要かもしれないが)恥ずべきことだと。
これはフェアな比較ではないというのがウィルバーの主張だと思います。
つまり、芸術、科学、倫理のどれについても、昔はひどかったじゃないか。それが近代の民主的な社会とマッチしているのは、分化して独自の価値観を持ってから進歩した後のことである。分化前の(迷信に近いような)低レベルの科学を指して科学一般を論じることができないように、低レベルの宗教を見て宗教一般を判断してはいけないということです。
しかし、実際問題として、普通に大学へ行ったら、洗練された科学、芸術、倫理を勉強することはできますが、それに見合うような宗教を見つけることは難しいでしょう。宗教は、分化して独自の価値基準を持つことができなった為、発達しそこねているわけです。少なくとも近代社会の中で、居場所を見つけることができないでいます。
でも、「私が生きている意味は何か」「この世界に私がいる意味とは何なのか」というような「究極の質問」への欲求を人間を捨てることはできません。それで、その欲求の行き場所は、低レベルの宗教か、信仰対象としての科学になってしまうというわけです。
逆に言えば、芸術、科学、倫理のどれかが中世のレベルで止まっていたら、他の二つも健全に発達するのは難しいでしょう。つまり、芸術への要求が科学の中で満たされたり、倫理が科学の代わりをしていたら、グロテスクな芸術、科学、倫理を我々は持つことになることは容易に想像できます。つまり、人間には(社会には)自然に成長を求める「発達ライン」というものがいくつかあり、その一つを封じると、その圧力が横から不自然なゆがんだ形で噴出し、他の「発達ライン」の成長も妨げるということです。
そのような「発達ライン」の封鎖が、「スピリチャリティ」というラインに起きている、そしてそれが現代の様々な問題を引き起こしているというのが、この本でウィルバーが主張していることです。
ポストモダンの立場から宗教的伝統の限界を指摘
そして、ウィルバーは多様なソースから、その「スピリチャリティ」という領域の成果を集めて再評価しているわけですが、一方で、その限界を指摘するような議論も行なっています。
ウィルバーは、「脳」でなく「意識」の問題として、宗教的伝統の中の修行体系を再評価しています。つまり、脳を調べることだけでは到達できない真理(リアリティ)がそこにあるという立場です。そして、多くの宗教的伝統の中に、その真理に到達する為の知識、システムがあって、その多くは本質的には同じことを、それぞれの文化的な伝統の中で述べているということです。
特に重要なのは、人間の発達段階として、単なる幻覚ではない神秘体験、「悟り」という意識状態が存在するという話。
ただ、そういう境地に達した人が「全てを理解した」と言うのはどういうことなのか。それをポストモダンの現代思想の立場から考察しています。
ここはかなり難解なのですが、私なりに解釈すると、「悟り」という意識状態は文化を超越した普遍的なものであるけど、それを解釈する場合には、文化的伝統とその発達段階に制約されるということです。
乱暴に言えば、「悟った人は本当に悟っているけど、その人が言うことが全て正しいとは言えない」ということです。
これはある意味、凡庸な結論とも言えるのですが、「悟り」という意識状態やそれにつながる修行体系を、全否定もしない全肯定もしない思想的立場というのは、実は稀有であり、その分だけ重要なものだと私は思います。
つまり、いかにうまく言葉をつくろっていても、本音の部分では、そういうものを幻覚や洗脳や迷信「のみ」である、中身は何も無いとする立場か、それが絶対であってそれ以外のものは意味が無いという立場か、そのどちらかに集約されてしまう議論しか無かったと私は思います。
この問題を、両方の立場をしっかりサーベイし学問的、哲学的に突き詰めた上で、厳密に中立(是々非々)の立場を取っている所が、ウィルバーのユニークな所です。
影の現象学としてのフロイト再評価
もう一つ面白いと思ったのが、フロイトの思想のエッセンスをコンパクトにまとめた上で再評価している「影と切り離された自己」という章です。
これほどわかりやすくツボを押さえたフロイトの紹介を初めてみました。
私は、自分のボスに対して怒っている。しかし、この怒りは「私は、いい人でありいい人は怒ったりしない」という自己-感情に対しては脅威である。そこで私は、この怒りを分離し、抑圧する。(中略)たとえば、私は怒りを投射する。怒りは引き続き生まれている。しかし、怒っているのは私ではあり得ないため、誰か違う人が怒っているに違いない。突然、世界は、まわりじゅう怒っている人だらけになる、それも私に対して。私のボスは、私をクビにしたいと思っているに違いない。(P177)
このように一人称(私)の感情が、二人称(あなた)、三人称(彼ら)の事象として現われるという病理が、フロイトが初めて発見したことのエッセンスです。具体的に例をあげれば次のような状態です。
最近の研究では、反同性愛・反ポルノ運動の男性たちは、同性愛のシーンを見せらると、普通の男性よりも容易に興奮することがわかっている。言い換えれば、彼らは同性愛にひきつけられているのだが、自分ではそれを認めることができないので、他人のそれを消してしまおうとする。自分たちは、そんな汚らわしい欲望は持ってないと主張しながら。
そして、その治癒をひとことで言えば「それがあったところに、私がいるべきである」となります。つまり、三人称として感じている「彼らの感情」「彼らの問題」の中に自分の問題を見て、それを「私」の感情として再体験することです。
このフロイトの業績は、ウィルバーの分類の中では「私の問題」、つまり個人の内面に属する領域で、宗教と同じ領域に属するものですが、古今東西いかなる宗教的伝統の中にも、このような概念がないとウィルバーは言います。人類の歴史の中でスピリチャルなラインの知恵に対して、フロイトは非常に重要な貢献をしたと。
そして、この概念を瞑想という手法と比較して、その共通点と相違点を分析した上で、一つの大きなメソッドの中にまとめようとしています。
それは、まだ完成されているとは言えませんが、現代の科学、芸術、倫理とバランスのとれた「スピリチャリティ」というものがどういうものであるか、おぼろげながら見えてくるような気がします。
まとめ
他にも、ハーバーマスやルーマンに関する言及もいくつかあるし、ニューエイジの代表としてオプラ・ウィンフリーをチクリと皮肉っていたり、本当に盛り沢山で読み所の多い本です。
また、翻訳もわかりやすく、要所要所に適切な訳注(相当に著者の思想を理解した上での補足説明)が入っています。
じっくり読む価値のある本だと思います。
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