日本教と原子力問題

原子力問題の中核には日本教という問題があると思う。

この人たちをはじめ、多くの人が日本人の精神構造とそこから来る社会の構造に、何か独特の要素があることを指摘してきた。このエントリでは、それらを総称して「日本教問題」と呼びたい。

この日本教問題がある為に、他の国や他の社会と比較して、日本人は以下のことが苦手になる。

  • 自由闊達な議論
  • 危機的状況でのトップダウンの意思決定
  • 科学的な論理に基く客観的な状況判断

原子力のような巨大技術を扱う時に、これが深刻な問題となる。

そして、一番まずいのが、こういう日本独特の社会構造を分析することを拒む構造が日本教問題そのものの中に、深く埋めこまれていること。

それを象徴するのが、マル激の小出裕章さんへの次のインタビューだ。

この中で小出さんは、学生時代のことを聞かれて次のように答えている。

(原子力発電所は都会には引き受けられないほどのリスクがあるという) その答を知ってしまった以上は私にとっても選択は一つしかなくて、これはとても認めることができない。止めさせようと思った。で、人生の選択を180度転換しまして、原子力を止めさせるということに、とにかく私の力をそそごうと思うようになったわけです。(中略)

原子力工学科というのは、もともと原子力発電をやろうとするまあ牙城ですよね。そこで私は、原子力発電をやめさせようとしたわけで、教員たちと毎日のように論争をしました。で、たいてい私が勝ちました。そうすると、彼らが何と言ったかと言うと、「自分には妻もいるし子もいる」と言った。

この小出さんと教員の違いは象徴的だと思う。

ここでの小出さんの考え方には以下のような特徴がある。

  • 科学的な真理は、人間の世界の上にある絶対的な真理であって、人間にはそれをくつがえすことはできない
  • 科学的な真理の呼ぶ声に対して、人間は、どのような犠牲を払っても従うべきである
  • 科学的な真理に対して、人間は個人として直接つながることができる

それに対して、小出さんの指導教官たちは、おそらく次のように考えている

  • 共同体の持つ価値は、科学や学問の上にある絶対的な価値であって、人間にはそれをくつがえすことはできない
  • 共同体からの求めに対して、人間は、どのような犠牲を払ってもしたがうべきである
  • 共同体の求めることが何かということは、個人に対して共同体を通して伝えられるので、個人の独断でそれを判断すべきではない

つまり、御用学者にとって、科学は重要だが絶対的な価値を持つものではない。それが「原子力村」の意向と違う結論を主張している場合は、共同体の価値の方を優先しなければならない。

これは、良心の問題でなく、一種の信仰の問題として考えるべきだと私は思う。

日本人離れした生き方を貫いた小出さんと比較することで、それは明解に見えてくる。

いくら優秀で理想に燃えていても、20才の学部生が、回りの影響でなく自分自身の判断で、何かをハッキリと決断するということは、日本人にはなかなかできないことだと思う。ここで小出さんは、「誰が言うかということには何の意味もない。何をどのように言うかが全て」という科学の原則に忠実に従っている。そして、それによって自分の人生の進路を大きく変えてしまった。

「科学的な真理に対して、人間は個人として直接つながることができる」というのは、キリスト教宗教改革にルーツを持つ、プロテスタント的な信念だ。ルネッサンスによって、神の言葉は科学的真理に代わったが、その絶対的な真理に個人が(言葉の力を駆使することで)直接つながれるというのは、プロテスタント的発想だと思う。

このような絶対性を否定するのが日本教だ。日本教では、共同体の価値に絶対性を置いているが、それを絶対性として明言しないことに日本教の本質がある。

小出さんに対して「いくら優秀でも、君のような若造が独断で結論を出すことは傲慢だ。科学的真理は共同体的価値を超えることはできない」などと、明確に意義を唱え、諭した人はいなかったと思う。

日本人は、こういう時、「君の言うことは正しい。しかし、そうは言ってもねえ」と言って、そこで口をつぐむ。

ここに、日本教の問題の困難さがある。

日本教は「共同体的価値を絶対化して、それを他の価値の上に置く」という考え方ではない。全てを相対化して、切所における判断基準は言語化しない、してはいけない、というのが日本教だ。

だから、「そうは言ってもねえ」と言って、そこで口をつぐむのが、正統的な日本教信者だと思う。

相対性に対する絶対的信仰を持ち、それによって深く自分の生き方を規定しているのだが、その事実を頑として認めず、「自分は状況に応じて常に適切に判断している」と信じこむのが日本教信仰である。

そして、空気の読めない存在に対した時、日本人は征夷大将軍検非違使などの令外の官を置く。犯罪者や異民族は、朝廷の中の空気を読めない存在で、「そうは言ってもねえ」の先にある沈黙によって、行動をおさえこむことができない。だからそれを無視することはできないが、そこに担当者を置くということは、その存在を認めることになるので、それもできない。

そこで、役職が無いけど役割がある「令外の官」という不思議な制度ができた。

「英語読み」とか「技官」とか「SE」は現代における令外の官であり、まつろわぬ放射能と戦い続ける吉田所長は現代の征夷大将軍だろう。

「令外の官」は、絶対性の言語で議論し決断することを許された人たちだ。彼らはその自由とひきかえに、官位と栄達をあきらめなくてはならない。

そして、日本教の構造を論理的に解き明かそうとする人も令外の官になってしまう。日本教問題についての本は学問とはされずエッセイに分類される。学問の世界でも政治の世界でも、中枢で影響力を持てるのは、「そうは言ってもねえ」という言葉に無言で従う人だ。

太平洋戦争も地デジも原子力発電も、この構造によって維持されてきた。内部にもおかしいと思う人はたくさんいたのだろうが、多くは「おかしいとは思う。だけどねえ」と沈黙し、論理的に納得するまで引き下がらない人は、令外の官となり巧妙にガス抜きされ、決定権から遠ざけれられてきたのだ。

原発運動には、二つの危険がある。

ひとつは、令外の官というかたちで決定力を持たないままガス抜きされてしまうこと、もうひとつは、それが異論を許さない新しい空気となって暴走することだ。

私は、日本人がこの日本教問題を克服するのは、なみたいていのことではないと思う。

いやむしろ、これを克服できると思うのが錯覚で、その錯覚がよりこの問題を深刻にする。「そうは言ってもねえ」と沈黙する人を説得しようとする時、どちらも自分の役割にとらわれてしまうからだ。

論理と沈黙が対した時、その両側に私がいる。そんな感覚が必要なのだと思う。



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