神話的自傷行為の当事者としての原発問題

原発に関する議論はこうなりがちだ。

  • A: 常識的に考えて原発はダメだろ
  • B: いや常識的に考えて原発でいくしかないだろ
  • A: そりゃおまえの常識がおかしい
  • B: いや、おまえの常識の方が常識じゃない

議論の座標軸を共有できない人と議論しなくてはいけなくなるのが現代なのだが、特にこの問題はそれが顕著に現れてくると思う。

何が常識であるか、ここでどの常識をベースに考えるべきか。それが原発問題の本当の論点だと思う。

私にとって、原発は何より第一に科学的な問題だ。

つまり、毒物質と毒原子核の違いを認識しろということだ。

サリンでもVXガスでも、大抵の毒物や危険物は、分子が毒を持っている状態である。つまり毒分子である。毒分子は、電子を引っぺがして組み替えると、毒じゃない普通にそのへんにある物質になる。電子を引っぺがす手段はいろいろあって、頑張れば大抵の毒分子を無毒化できるし、難しくても集中的に研究すれば、従来の技術の延長、組み替えで対処できる。

それに対して、放射性物質は、毒分子ではなく毒原子核だ。これはその回りにある電子をどういじっても毒が消えない。

分子と原子核は、どちらも電子顕微鏡でも見えない非常に小さなものだが、実は両者の大きさは随分違う。分子を東京ドームの大きさとすると、原子核はパチンコ玉くらいになる。パチンコ玉の大きさ・重量のものを引きのばして、東京ドームの大きさのスカスカにしたものとパチンコ玉そのままのものと、破壊する大変さがどれくらい違うかという話だ。

毒分子を壊すのはスカスカの東京ドームを壊すことに相当し、毒原子核を壊すのはそのままのパチンコ玉を壊すことに当たる。

現在の人類の技術は、東京ドームくらいのスカスカのものには手が出るが、その重量がパチンコ玉に集中してしまうと手が出せない。これは単に今すぐできないというだけでなく、当分できない。ちょっとやそっとではできない。毒原子核を壊して放射性物質を始末できるようになるのは、ドラエモンを作るよりずっと難しい夢物語なのだ。

科学の問題として原発を考えると、放射性物質の扱いにくさは、他の毒物と比べて東京ドームとパチンコ玉の違いくらいの差があるという話になる。

ただ、科学が言えるのはここまでで、だから原発をやめるとか続けるとかの疑問には科学は答えられない。

東京ドームとパチンコ玉の違いは、同時に効率の違いでもあって、火力発電と原子力発電の効率の違いも、この東京ドームとパチンコ玉の違いになる。原子力発電は、それくらい扱いにくいものであると同時に、それくらい効率がよいものである。

私が「原発は科学の問題である」と言うのは、「科学的に考えれば原発を止めるという結論になる」という意味ではない。東京ドームとパチンコ玉というたとえ話で今説明した、毒分子と毒原子核の違いについて(その効率の違いについて)、原発について議論する人は理解しておくべきであるということだ。そこを理解してから議論に臨むべきだということだ。

私は困難さの方に着目して止めるべきだと考えるが、同じ科学的な観点から効率の良さの方を重く見る人もいるだろう。あるいは、困難であると理解していても、これをやるしかない、やるべきだという主張もあり得ると思う。

ただ、放射性物質が毒原子核であることを理解せず、ただの毒分子と思っている人には「出直して来い」と言いたくなる。そこを理解してない人と議論するのは時間の無駄だと感じる。

このように「原発について何を言ってもいいけど、最低○○は押さえておいてほしい」というふうに感じている人は多いと思う。ただ、その○○はいろいろあるだろう。

「内部被爆と外部被爆の違い」かもしれないし「原発無しでは成り立たない地域の問題」かもしれないし「各発電方式別の発電コスト」かもしれないし「福島第一の時代から今までどれだけ原子力の技術は進歩しているか」かもしれないし「政財官を巻きこんだ利権の問題」かもしれないし「日本の経済や財政の状況」かもしれない。

みんなそれぞれ自分の○○を持っていて、「その○○を基盤としないから議論が噛み合わないんだ」と思っている。

「常識的に考えて、○○くらいは勉強してからモノを言えよ」と思っている人はたくさんいるけど、その常識がみんな違う。

だから、原発に関する議論は、それぞれが自分の○○を共有するように訴えかけ、それを共有する人をどれだけ獲得するかの議論になる。

原発に関する議論は、それぞれが自分の○○を共有するように訴えかけ、それを共有する人をどれだけ獲得するかの議論になる」ということをより多くの人と共有したい、というのが実はこのエントリの第二の主題である。

そういう議論の性質を共有できていれば、無駄な議論を避けられるケースがけっこうあるような気がする。

それで私の○○がもう一つあって、それが第三の主題なのだが、これが実に表現しにくい。表現しにくいが無理に書いてみる。

原発放射性廃棄物処理場も、ひとたび事故を起こすと、毒原子核をばらまき、人の住めない土地を生む。そういう事故の後始末をできる技術を開発できるのは、相当後だ。つまり、原発は一つ間違うと国土を削る。そしてそれが実際に起きた。

ここまでは、科学についての知識から導かれる論理的な結論なのだが、ここまで考えると、私は削られていく日本の国土そのものに同一化してしまい、削られる国土の痛みを自分の身体の痛みとして感じてしまうのだ。

削られる国土に同一化すると同時に、そういう事態を引き起こした日本の社会そのものとも同一化している。だから、その時、削っているのも削られているのも私自身なのだ。

自分の身体が痛いのは確かだが、では痛いのはどこか?と聞かれたら、「福島県浜通りとその周辺」としか言えない。

4月下旬から6月上旬まで、私はそういう痛みを感じていて、ブログも(書きたかったけど)書けなかったし、仕事も進まなくて、何人かの人に迷惑をかけてしまった。のたうち回ったりはしないが、寝こんだことは数回あって、何事もはかどらなかった。

痛くて何もできないが、その痛みを引き起こしているのは他ならぬ自分自身であって、どうしたらいいのかわからない。

言わば「神話的自傷行為の当事者としての原発問題」という観点、というか、観点というようなのんびりしたものではなくて、現在進行中の切実な問題である。

その痛みを、実はみんなも感じているのではないか?という話だ。

これを「ちっとも痛くない」と否認すると原発推進派になり、「やってるのは自分じゃない」と否認すると反原発派になる。

否認をやめて痛みを感じ直すということが、この問題について考えるための出発点になるのではないかと思っている。