原発とネズミ講の共通点

それは、「トータルの収支計算」をさせないで、「目の前の収支だけに目を向けさせる」ということです。

ネズミ講は会員全員が儲かると言うけど、トータルで収支を計算したら、得する人がいる分だけ、そのお金を差し出して損をする人がいるはずなのです。しかし、そういうことを考えていはいけないと言います。「そんなことより今あなたは儲けている。そのことが大事だ」

原発は、使用済み燃料の最終的な処置について説明しない。放射性物質の収支の計算は簡単で、地球上では半減期以外に減る要素がないわけだから、どんどんたまっていくしかないんだけど、それについて考えさせないようにします。「そんなことより今あなたの使う電気が足らない。そのことが大事だ」

目の前の収支について考えることが優先で、トータルの計算は後回し。もしくは、他のどこかで誰かが考えているからよいと言います。

でも、使用済み燃料の処置は、「確実に閉じこめる」という手段しかないことはハッキリしている。無毒化する手段はありません。

ここが大事なことです。「未知の危険がある」という空想の話をしているのではなくて、確実な危険があって、それは「閉じこめる」以外の解決策がないということがハッキリしているのです。

新しいテクノロジーには必ず未知の要素があります。ベンチャー企業への投資のようなものです。それはどんなに危っかしくてもいかがわしく見えてもネズミ講とは違います。

ベンチャー企業には「成功した時にはこうなる」というストーリーがあって、そのストーリーの辻褄はあっています。それが実現する可能性が低くても、うまくいった時どうなるかの収支計算があっていれば、投資する価値はあります。リスクとリターンのバランスがあっていれば問題ありません。

しかし、原子力発電には辻褄のあったサクセスパターンがありません。そのストーリーの中には「確実に閉じこめる」という話が含まれていて、それが可能であると信じる人には、辻褄のあった話に思えるかもしれませんが、私にはそうは思えません。

「確実に閉じこめる」ことが可能であるかどうか、これは個人の価値観の問題です。私は不可能と考えるべきだと思いますが、これは個人の信念で、客観的に論証できることではありません。

でも、閉じこめられなかった時、次の手段があるのかどうか、これは科学についての知識の問題です。基本的な常識があれば、放射性物質を無毒化する手段はないことはわかります。相当空想的なことを考えれば、もう一度集めることは可能かもしれませんが、集めたら閉じこめ続けなくてはいけない。無毒化する手段はありません。*1

閉じこめられなかった時に次の手段が無いことをハッキリさせて、その上で「確実に閉じこめるからOK」と言うなら、少なくとも考えるべきポイントごまかしてないので、ネズミ講は言い過ぎかもしれません。

でも、私には、原子力発電を推進する人は、そこを誤魔化してあいまいにしようとしているように感じます。目の前の収支に目を向けさせて、トータルの収支(に相当する使用済み燃料の処理)を考えさせない。

稼働中の原発の事故も、ある意味では使用済み燃料の処理のバリエーションです。確実に閉じこめることが重要で、次の手段がないことが共通しています。使用済み燃料の処置についてもっときちんと考えていれば、事故の対応もできるはずです(あるいは事故に対応しようがないことが明確になったでしょう)。

結局、不安定な原子核の数が合計いくつでどう推移していくか考えることが、一番重要だと思います。それについて説得力のある説明ができない限り、あるいはそれをリスクファクターとして前面に出して納得を得ようとしない限り、原子力発電はネズミ講です。


一日一チベットリンク相次ぐ焼身自殺、発砲、進む弾圧:2012年春の血塗られたチベット

*1:量が少なければ、「散らす」という手段もあるかもしれませんが、放射性物質は漏れた時点でコントロール不能なので、量の想定は最悪ケースで考えるべきで、「散らす」というのは手段としてみなすべきではないと私は思います。