人類はまだ原子力を手に入れてない!

原子力発電について、さまざまな人がいろいろなことを言っているが、いくら聞いてもどこか納得できない人が多いのではないだろうか。

それは当然である。なぜなら、原子力について一番大事なことを、誰もまだ言ってないからだ。

原子力に関する一番重要な事実は「人類はまだ原子力というものを手にしてない」ということだ。

人類は、原子力がどういうものかは理論的にはほぼ理解している。しかし、それを技術として自由に使える段階に来ていない。だから、原子力については、夢物語としてはいろいろなことが言えるが、確実な検証可能なことは何も言えない。

原子力とは、原子核を組み換えて、エネルギーを取り出すとことだ。人類の技術はこれをできる段階に達してない。

人類は物質に対して、いろいろな加工、変換を行ってきたが、そのほとんどが、分子の組み換えである。分子の組み換えにおいて、その前後で、原子核(素粒子)は変化しない。

我々の身の回りには高度な技術の産物がたくさんあり、それぞれが今も発展しつつあり、毎日のように新しい技術が生まれているが、そのどれにおいても、使用前と使用後で原子核は一切変化しない。原子核と電子を組み合わせたものが分子であり、分子を作ったり消したりはできる。しかし、それは電子を違う原子核にくっつけるだけの話で、材料の原子核は変化しない。そして、この違いはすごく大きい。

分子を東京ドームの大きさに拡大すると、原子核はピンポン玉の大きさだ。そして、重量は原子核がほとんどを占めている。

今、人類ができることを、ゴジラが東京ドームを破壊することにたとえてみよう。そうすると、原子力とは、その東京ドームの中にあるピンポン玉をゴジラが破壊するということなのだ。

東京ドームを破壊できるが国立競技場を破壊できないという話ならなんとかなる。ゴジラでだめなら、キングギドラを呼んでくればいい。あるいは、ゴジラを10匹集めれば、国立競技場を破壊できるかもしれない。

つまり、分子レベルの組み換えで、今はできないけどどうしてもしたいことがあったら、頑張ればどうにかなる。

そういう意味では技術の可能性は無限で、今すぐできないことを「人類は○○を手に入れてない」などとエラそうに言うことは間違いだ。既存の技術の延長やちょっとした組み合わせで、それに手が届く可能性は充分ある。

もし原子力がそういうものなら、多少の欠陥には目をつぶって、「人類は原子力を手にした」と言ってもいいだろう。走りながら考えて、使いながら技術を磨いていけば、たいていのことはどうにでもなる。

しかし現実は違う。人類はまだ原子力を手に入れてない。

ゴジラがピンポン玉を破壊できるだろうか?そのピンポン玉は東京ドーム一個分の質量を凝縮したとてつもなく固いピンポン玉だ。ゴジラの手の上に乗せたら、ゴジラの手を楽に貫通してしまう。次元の違う硬さだ。

実際には、分子より小さな微小の世界のものごとは、ゴジラや東京ドームとは少し違う。もう少しだけ丁寧に言えば、必要な温度が違う。地球上にある分子は、多くは数百度、手強いものでも数千度で溶けて組み換えができる。それに対し、原子核を溶かす温度は最低一億度だ。*1

原子核を扱うためには、人類は、今手にしているものよりはるかに大きなエネルギーをはるかに小さな領域に集中することが必要で、それはドラえもんよりずっと先の未来にある技術だ。後始末を考えない爆弾とごくごく例外的な一部の実験設備の中では、ちょっとそれにカスっているが、基本的には人類には手が出せないレベルの技術だ。

人類はまだ原子力を手に入れてないし、ちょっとやそっとでは手に入れることはできない。

じゃあ、ウラン235で人類が何をやっているのかと言うと、あれは、燃えつきてない燃えカスを利用しているだけだ。

はるかな昔、星が爆発して飛び散った時、原子核的に燃えかけている途中の物質がその中に含まれていて地球の材料の一つになった。この原子核は不安定なので、濃縮するとまた燃えだす。

人類が燃やしているのではなく、星が燃やしそこねた燃えかすを拾って、中断したそのプロセスの続きを始めさせることを、原子力発電と呼んでいる。

本来、原子核を組み換える方法も、分子を組み換える方法と同じくらい、いろいろな可能性があっていろいろなやり方がある。

人類は、分子の組み換えについては、何万種類もできることがあって、さまざまなノウハウを持っていて、今できないこともこれからできるようになる可能性は充分ある。

しかし、原子核の組み換えについては、ただ一つだけ簡単にできる抜け道を発見した。しかもこれは自力ではなく、たまたま星が作った重い原子核の中で、非常に不安定なものを見つけたというか、それがたまたま地球にあったというだけのことだ。

子供が花火に火をつける方法を横目で見て覚えた。それを指して「この子供が花火を扱える」と言うのはおかしい。「花火を扱える」というのは、火のつけかたと火の消し方を両方理解して、バケツを用意してから花火に火をつけることを言う。

バケツがないから、とりあえず火をつけて、火事になった時のことは火事になってから考えることを指して、「原子力を手にした」と言うのはおかしいでしょ。

普通の技術者は、素人が考えない失敗ケースのことをいろんなパターンで考えられるから、自分は偉いと思っている。

たとえばデータベースや通信の技術はそういうもので、正常ケースの動きだけ理解して、わかった気になっている奴は、素人としてバカにされる。何億円もするシステムの分厚い仕様書には、事故った時どうやって復旧するかという話ばっかり何通りも書いてある。

原子力は、原子核が思うように扱えなかった失敗ケースについて何も言えないというか、何もできないことが確定している。失敗ケースのシナリオが何もない。それを技術と呼べるのだろうか?

次の事故がどこでどう起こるかわからないが、飛び出した原子核に何もできないことは確定している。ゴジラがピンポン玉を扱えないくらい確定している。人類がセシウムの分子に対してできることは、これからどんどん増えていくだろう。しかし、セシウム原子核に対しては、100年以内に安定的に何かができる見込みは全くない。そこには10000倍のレベル差がある。

今回の事故で最も教訓にすべきことはそれである。今回の飛び散り具合はたまたまこうなっただけで、次回に同じ事故が起きて同じことが起きる保証は何にもない。津波の対策ができたら、次はテロかもしれない。

何が起きるかわからないが、今回と同じく、飛び出した原子核に何もできないことは確定している。

事故がなくても、使用済み核燃料の中の原子核に対して何もできないことは確定している。

せめて、正常ケースの中で、使用済み核燃料の原子核をどうにかできるようになってから、「人類は原子力を手に入れた」と言うべきだろう。限定したケースだけでも原子核を扱えるようになったなら、それを応用して事故った後の始末をつけるという発想は現実的だ。

そういう前提で「原子力発電についてどう思いますか?」と聞かれたら、「いくつか大きな問題があるが、大変有望な技術であり、積極的に活用する中で問題を解決していくのが現実的な方策だと思います」と私は答えるだろう。でも、失敗ケースの想定がないものについて聞かれても「存在してないものにはコメントしようがない」としか言えない。

今回の事故に関してさまざまな流言飛語が飛びかっていて、正確な科学的知識の啓蒙が必要だと言われている。

ではまず、「人類は原子核に対して何もできないしできる見込みがない」という知識を広めることから始めるべきだ。それをわかりやすく言うには「人類はまだ原子力を手にしてない」と言うのがいいと私は思う。


一日一チベットリンク中国の政策で定住化するチベット人遊牧民たち、先の見えない暮らし  写真2枚 国際ニュース : AFPBB News

*1:核融合反応を起こすために必要な温度。核融合原子核を破壊する唯一の方法ではないが、核力に対抗できるエネルギーを目安として温度で表現すれば一億度のオーダーになるという趣旨