罪を憎んで人を憎まず

「○○は私たちの国の中に人が住めない場所を作ってしまった」という文の主語に、あなたは何を代入するだろうか?

東京電力民主党自民党原子力業界?日本の硬直化した意思決定システム?

私はこういうべきだと思う。

「私たちは私たちの国の中に人が住めない場所を作ってしまった」

今回の事故はあり得ないような大きな天災が引き金になったことは間違いないが、防げないものではなかった。古い原子炉の危険性はあちこちで指摘されていたみたいだし、地震が起きた後の対応も不手際がいくつもあるようだ。

正しい対応を妨げるようなシステムを何重にも私たちの社会は持っている。これからその犯人探しがはじまるだろう。

しかし、その裁きは「平穏であるべき私たちの生活に異物が侵入してきた。これから私たちはその異物を徹底的に排除していく」というような形ではうまくいかないと私は思う。

なぜなら、そのような認識は、「正しくものごとを制御すべきどこかの誰かと、制御されている無力な私」という世界観を背景にしている。つまり、社会から自分を除外することで成り立っている。暴走する巨大技術の根っこは、この世界観そのものだ。

20世紀は官僚制の世紀で、官僚制とは単一帰属の世界だ。そこでは、人は、制御する側か制御される側のどちらか一方にだけ所属している。

1945年に、私たちは、この世界観を変えることができる一つの機会を持った。その時に「私たちがこの戦争を引き起こした」と考えるべきだった。もしそれができたら、私たちにとって20世紀はもっと違う世紀になっただろう。

しかし、その時、私たちは「正しくものごとを制御すべきどこかの誰かが戦争を引き起こし、無力な私はそれに巻き込まれて被害を受けた」と考えた。その形の反省は、システムを改良するためには役に立たなかった。

今度は、もし本当にやり方を変えようと思うなら、「私たちは私たちの国の中に人が住めない場所を作ってしまった」と考えるべきだと思う。

つまり、「彼ら」と自分たちは、どこかでつながっているという感覚を、自分の感じるリアリティの中に持ちこむべきだと思う。

たとえば、私にとって「彼ら」とは、「理想と現実が分離して交わることがない」という信念を持った人たちだ。

原子力利権にかかわる人たちは、そういう人が多いと私は想像している。彼らは、「理想」を拒否することで「現実」を基盤として日本を守ろうとしてきた人たちだ。代替エネルギーや段階的な脱原発や一レベル上の災害対策等は、彼らにとっては「現実」を侵食する「理想」であって、何としても排除しないと大事なものが守れないものだ。

そう、彼らもまた大事なものを守ろうとしていたのであり、私はその大事なものとつながることができなかった。

私は、「理想と現実が分離して交わることがない」という信念を持った人たち、とは対話が成立する見込みがない、という信念を持っている。時に私は、その信念を守ろうと必死になって何かを犠牲にする。

私は自分の大事なものを守ろうとして、彼らとつながることができなかった。私が彼らを排除したように、彼らも私を排除して、対話が成立することなく原子力発電所は必要以上に危険なまま放置されて大事故を起こした。

「罪を憎んで人を憎まず」は道徳とかの話じゃなくて、非常に実用的なライフハックだと思う。

人を憎んで人を排除しても、システムは変わらない。システムの欠陥を直視すべきなのだ。罪とはシステムの欠陥だ。そして、私たちは常にシステムの欠陥の一部なのだ。人を排除しても、私たちの中にあるシステムの欠陥は形を変えて残ってしまう。

システムの欠陥とは、社会が「制御する側」と「制御される側」に分断されているという信念だ。これが対話を妨げ、互いの被害妄想を引き起こす。

その信念は、もう古いと思う。私たちは多重帰属の時代に生きている。

ツイッターやネットが世界を変えているのではなく、変わっていこうとする世界に敏感に反応しているのがツイッターやネットだ。

人は、できるだけ多くのクラスタに所属して、そのクラスタを変えることを通して、世界を変えていくべきだと思う。

人は、できるだけ多くのクラスタに出入りして、クラスタ同士の対話の架け橋になることを通して、世界を変えていくべきだと思う。

クラスタなんて幻想だけど、官僚制や単一帰属も同じように幻想だ。幻想を通して、人は世界を把握して世界に関わるのだから、同じことだ。

ツイッター原子力発電所も、私たちが想像したから生まれてきたのだ。社会が作るものは、私たちがそのリアリティを受け入れなければ、存在することはできない。

私たちには、ツイッターを創造し運用する力があり、原子力発電所を創造し運用する力がある。

多重帰属をベースにした、もっと対話の豊かな社会を創造する力もきっとある。安全な原子力発電所を創造する力もあるし、原発抜きで充分なエネルギーを供給できる社会を創造する力もある。その選択をする為に充分な数の対話を構築する力もきっとある。

でもその前に、「私たちは私たちの国の中に人が住めない場所を作ってしまった」ことを、自分を主語とした上で、直視すべきだと思う。