歴史の中では20世紀が逸脱の時代として記憶されるかもしれない

もし地球に未来があるとしたら、今世紀後半か22世紀くらいには技術によって地球が一つになって、国民国家が名実共に消滅するだろう。そうしたら、将来の歴史教科書では、16世紀から21世紀か22世紀くらいまでが「技術によって地球が一つになっていく過渡期」として一つの章が割り当てられるだろう。

しかし、この時代区分の中で20世紀だけは、異質な「逸脱の時代」として特記される。場合によっては、別の1章を割り当てられて「人間の本性に反した圧政が敷かれていた暗黒の時代」みたいな扱いを受けるのではないだろうか。

つまり、30世紀くらいから人類の歴史を振り返った時に、「人類の歴史で一番変な時代はいつですか?」という質問に対して、誰もが「20世紀!」と口を揃えて言うような時代。おかしな事件や状況が頻発していて、学生が歴史を勉強する障害となり「この時代がある為に学生が歴史嫌いになる」と言われるか、あるいは逆に「20世紀を勉強すると歴史の中の意外性や奥深さがわかる、本当の歴史の面白さはここにある」ということになるか。

社会も経済も政治も、技術によって制約を受ける。そして、技術が変化する時に制約の構造が変わり、社会構造全体に大きな変動が訪れる。それは何度でも繰り返される歴史のヒトコマに過ぎない。

でも、20世紀の技術は人間の本性に反した部分を多く持ち、人々に無理を強いてきた。ネットはそういう意味では無色透明な技術だが、限界ギリギリまで無理をしてきた20世紀の名残りの社会にこれが持ちこまれると、「20世紀から維持されてきた無理を開放する技術」という性質を持つ。伸びきったゴムを握りしめている手を離す時に何が起こるか、それがネットが世界に与えるインパクトだ。

もしそうだとしたら、20世紀に成人し20世紀の常識を身につけ、20世紀の世界を見て世界がこういうもんだと思いこみ、20世紀のままの社会の中で社会がこういうもんだと思いこんで暮らしている我々は、未来の人から見ても過去の人から見ても、ものすごおーーくおかしなことを当然と思いこんでいる変人集団ということになる。

変人は、まともな人を見て「自分がまともでアイツが変人だ」と言う。変人集団の我々が、少しだけまともな方向に戻りかけている21世紀初頭の世界を見て、「変な世の中になったもんだ」と言っていると、過去と未来の人から「やっぱり変人たちには、まともな社会が変な社会に見えるんだね」と笑われるかもしれない。

「でもね、僕らは、World War 1 & 2を見てきたんです。冷戦を見て公害を見てモダンタイムズをファンタジーでなく自分たちが生きている社会を描写したものとして見てきたんです。ちょっとくらい頭が変になったっていいじゃないか!」

そう言って未来の人と過去の人に反論したら、彼らは理解してくれるだろうか。同情してくれるかもしれないけど理解されないだろう。理解しようとしても、我々が見てきた現実は彼らの想像の範囲外にあって、努力してもそれを同時代的な現実として受け止めることは無理だろう。


タイムマシンが発明されたら、犯罪者たちを震えあがらせる最も恐しい刑罰は「20世紀送りの刑」になるかも。つまり、記憶を剥奪されニセの記憶を埋めこまれた上で、20世紀に送りこまれ、残りの人生をその時代の人間として生きるという刑。我々にとって平凡な人生とされる人生が、未来の人間からは刑罰として機能するという可能性。

というか、自分はそういう刑罰としての人生を生きているという悪夢。「いやだああ、それだけはやめてくれえええ、そんな人生は生きたくないいい」と泣き叫んでいる自分のかすかな記憶。あるはずだけど奪われていて再生できない記憶。それでも残っている原罪としての罪の意識。


ついついそんな想像をしてしまう私は間違いなく変人だと思いますが、「20世紀で何かが底を打って反転している」という観点は、可能性として持っていてもいいのかなと思います。つまり、「20世紀の常識にネットを加えて新しい常識が構築される」と見るのではなくて、「ネットが人類の普遍性への回帰を促す時、20世紀の中で何がクリアされるのか」と考えること。少なくとも「人間とはこういうものだ、社会とはこういうものだ」と経験を元に言う時に、20世紀特有の技術との関連を意識すること。

たとえば、テレビや国際電話によって世界が一つになっているけど、通信の媒体が少数の人によって集中的に管理されているというのは、20世紀の技術の性質であり、不可逆的に分散処理に移行します。この技術の性質と権力の仕組みや経済の流れはリンクしているわけで、技術が変われば政治も経済も変わります。

技術が政治や権力に与えるインパクトとしては、2ちゃんねるのようなものを考えるべきです。技術的には、2ちゃんねるとは、フローティングスレッド式の掲示板であり、C言語で書かれCGIという形式でLinuxFreeBSD*1というOS上で動作するアプリケーションですが、掲示板やC言語CGILinuxFreeBSDという技術を研究することで2ちゃんねるを予測したりその性質を理解することはできません。

掲示板という技術は何かを緩めただけで、緩められた時に今まで締めつけられていたものが噴出したわけです。そういう現象について考える時には、「緩めるもの」に注目するより、今締めつけられてものに注目した方がいいと思います。

技術を見ていると、「緩める」系の技術には有望なものがたくさんあります。階層的な集中処理が、フラットな分散処理に移行することは必然です。「今まで締めつけられていたものが噴出する」ことは、これからもたくさん起きるでしょう。そして、「何が今締めつけられているのか」を考える上では、「20世紀送りの刑」を生きている自分を想像するのも一つの手です。長い間締めつけられていると、締めつけられていることを実感できなくなってしまいますから。


一日一チベットリンク「ウイグルの原爆被害を知ってもらいたい」世界から‐中国・台湾ニュース:イザ!

これはチベットではなくてウイグルの話ですが「原爆の悲惨さを一番知っている日本人に、原爆の被害に苦しむウイグル人が大勢いることを知ってもらいたい」というメッセージはその通りだと思うので。

*1:コメント欄のご指摘により修正しました