自分と違う決断をした人に敬意を持てるようになれたらいいな

近所に住む友人が放射能が怖くて引っ越して行って、自分はここにそのまま残り、その友人と20年後に再開したとする。

その時、自分や家族に何の健康被害も無ければこちらの勝ちで、私はニヤニヤしながら彼を見下して「あの時は大変だったでしょう」とか言うだろう。

自分や家族の誰かが病気になっていたらこちらの負けで、その負けを繕うための言い訳をあれこれ考えるだろう。

どちらになったとしても悲しいことだ。

道は違ったとしても、お互い一生懸命考え迷いに迷った上での決断なのだから、「あの時は大変だった、でもお互いよく頑張ったね」と素直に再開を祝いたい。

違う道を選んだ人にも敬意を持てる、そういう人間に私はなりたい。

今の自分にはやせがまんして口先だけで何か言う自分しか想像できない。でも、なんとかして、どちらのケースでも自分と友人を共に肯定できるようになりたい。

彼が引っ越して行くことで、私の放射能に対する恐怖は倍増する。もちろん、私は情報強者だから、この私が調べた情報が正しいはずで、だから私は怖がる必要なんかなくて恐怖なんてないはずだけど、いかにあいつは馬鹿だと思っても、現実にいくつもあるリスクを乗り越えて大きな決断をした人が身近にいたという事実の衝撃は大きく、そういう不安を呼びおこした彼を私は憎むだろう。そして、その憎悪はきっと二人の再開の時に暗い影を落とすだろう。

私は、よほどのことが無ければ、その憎悪をおさえこんで紳士的にふるまえる人間ではあるけど、その憎悪や不安を持たないでいられる人間ではない。

でも、どうして情報の解釈が違う時に、憎悪や不安を持つ必要があるのだ。

その憎悪や不安は情報の解釈や伝達に役に立つのだろうか?

確認すべきことは、自分がその時点でベストを尽くしたかどうかである。引っ越す前の友人には、参考意見として自分の解釈を伝えたい。彼の考えもよく聞いておきたい。そのことにはベストを尽くしたい。でも、その上で彼と見解が一致しなかったとしても、お互いにベストを尽くしてそれぞれが最善と思える選択をしたのだから、それでいいではないか。

彼がどうしようが、もともと不安はある。その、もともとあった不安は仕方ないとして、彼が引っ越したことで不安が増えてしまうのはおかしい。

その不安の増量分はなんとかしたいし、ましてそれで彼に対して悪い感情を持たないようにしたい。そういう人間に私はなりたい。

微量放射線というのは微妙な問題で、引っ越すという話にならなくても、食材をどうするかみたいな所にも、多くの見解の相違があって、それがいちいち微妙な亀裂を産む。

誰かが自分と違う選択をしたことで、不安が増したように思えたとしても、その不安はたぶん、もともと自分の中にあったものだから、その誰かのせいにはしない方がいいと思う。

もちろん、明らかに間違ったことを信じている人がいたら、それについては教えてあげるべきだけど、自分が持っているその不安について意識していた方が、たいていコミュニケーションがうまくいく。






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