「罪を憎んで人を憎まず」2.0

英訳すると、こうなるそうです。


There's no doubt that he committed the crime, but let us condemn the crime rather than the criminal.

この逆の傾向が私たちにあるから、こういう諺ができたのだと思います。価値観の衝突が起こりやすい流動的な時代ですから、より一層、criminalの中のcrimeを見極めることが必要とされているではないでしょうか。

「罪を憎んで人を憎まず」という気持ちをバージョンアップする必要を感じたので、これで手持ちのネタをいくつか吐き出してみようかと思います。

その1、「風説の流布」を憎んで「投資事業組合」を憎まず

最初はもちろんホリエモンネタですが、新聞やテレビを見ても、ホリエモンがどういう罪を犯したのかわかりません。他の人はあの説明でわかるのだろうか?と思ってしまいます。なんとなく、「投資事業組合」とか「株式分割」とかが悪いことのような気がしてくる。名刺交換した人の肩書に「投資事業組合」とか書いてあったら、「ウヌ、ホリエモンの一味か。騙されんぞ!」とか思ってしまいそうです。

そこで、ネットをあちこち見てみると、わかりやすい説明がありました。

isologue −by 磯崎哲也事務所 Tetsuya Isozaki & Associates: 会計ルールの「穴」


会計原則でいう「真実」とは、「絶対的な真実」とは違って、業種・業態や人間の判断によって若干ゆらぐ性質の「相対的真実」である、てなことが言われ、「罪刑法定主義」とか「租税法律主義」というのとは違って、(明文の)ルールに沿っているかどうかが問われるのではなく、会計の目的(大原則)にそっているかどうかが問われると考えます。もちろん、「相対的真実」なので、人によって若干考え方が違う面はありますが、「企業の財政状態や利益を適正に表示すること」は大原則中の大原則。にもかかわらず資本取引と損益取引を混同して利益を大きく表示しようというのは、会計で最も避けなければならないことなわけです。つまり、財務諸表論の1時間目で習うようなお話。


いくら明文のルールに書いてなくても、会計士100人に聞いて100人ともが「なんじゃそりゃ?」と言う会計処理や表示は、「公正なる会計慣行」とはいわないと思います。(中略)ということはすなわち、いくら明文の規定のどこに書いて無いにしても、その処理や表示は確実に「法律違反」かと思います。

一方で、こういう話もあります。

法と常識の狭間で考えよう: 東京地検特捜部による「劇場型」見せしめ逮捕は許されるか?


1月23日発売の「週刊ポスト」(2/3号)は、ある社長による「新興市場にはライブドア以上にひどいマネーゲームを繰り返している会社がヤマほどある。ただホリエモンほどの知名度はない。だから一罰百戒の対象としてライブドアが狙われた」というコメントを紹介している(同30頁)。


しかしながら、そうだからと言って、それまで法律の解釈が曖昧であったり不備があるなどして、「グレーゾーン」だったものを、急にその解釈を変えて「ブラック(違法)」だとして、刑罰を適用して排除しようとするやり方は、極めて乱暴であり、まさに権力を剥き出しにした強権的なやり方と言わなければならない。

両者の見解は、ほとんど反対と言っていいほど違いますが、このあたりを詰めていくことで、どこに「罪」があるのか見えてきそうな気がします。

ライブドア一転、買収の標的に?資産だけでも魅力的という記事が本当なら、ホリエモンが(不法な手法で捏造した分を除外しても)価値を創造していることは間違いないので、「罪」と「人」を切り離すことは重要だと思います。

その2、朝鮮総連傘下の某団体を憎んで、何も知らない構成員を憎まず

陸自の最新型ミサイルデータ 総連団体に流出


在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)傘下の「在日本朝鮮人科学技術協会(科協)」(東京都文京区)が、陸上自衛隊の最新型地対空ミサイルシステムに関する研究開発段階のデータなどが記載された資料を入手していたことが二十三日、警察当局の調べで分かった。データはすでに北朝鮮に送られているとみられ、警察当局は資料の流出経路などについて捜査を進めている。


この資料に記載されている戦術弾道弾に対する要撃高度や援護範囲などの考え方からは、陸自が中SAM以降の地対空ミサイルシステムで整備を進めるとみられる戦術弾道弾への対処能力を予測できることから、北朝鮮側に対抗手段を示唆しうる内容となっている。

かなり高レベルの国防機密が盗まれ、国交の無い国に漏れたという話で、もし他国で起きたらこれはどのような罪になるのでしょうか?

これから、こういう話がたくさん出て来ると思いますが、その時に、日本人が「罪を憎んで人を憎まず」をいかに貫徹できるのかが問われてくると思います。

その3、承認リソースの不足を憎んでホームレス襲撃者を憎まず

これは、「野宿者襲撃」論についての、idjunippeさんのレビューを拝見して思ったことです。この本は読んでいませんが、次の一節に衝撃を受けました。


実際に長年野宿者の支援活動を続けてこられた生田さんが「「ホームレスを襲撃するような「壊れた」少年を、健全なわれわれの社会に引き戻す」という発想はどこまでいっても不毛」であると述べることを重く受け止めました。


生田さんは加害者の少年を例外的な「壊れた」存在と捉えるのではなく、いかなる社会的な文脈において少年が野宿者襲撃を行うのかを問題にしているのだと思います。

私は、ホームレス襲撃者の中にある「罪」は、私たちの中にもあるというふうに読みました。

「何かをするから存在していい」ではなくて、「そのままで生きていていい」という「承認」が、現代の社会では圧倒的に不足しています。絶対的な「承認」が得られない為に、他者との比較という相対的な承認で間に合わせるしかないという状況に置かれた人たちの中で、ホームレスになった人たちと、ホームレス襲撃者と、彼らを比較対象として自分の「承認」を何とか確保している人の距離はほんのわずかです。

その4、切断操作を憎んで流動化を憎まず

はてなダイアリー - 切断操作とは


「かつての未開な共同体では、疫病が起こったり不具が生まれたりすると、生け贄を捧げるなどの儀式をして、問題を「聖なる領域」に囲い込み、皆で安心するという操作がありました。僕たちの複雑な社会にも、実は似たような機能を持った操作があります。


例えば、訳がわからない事件が起こったときに、誰が悪いのか皆で考え、コイツが悪いんだって突き止めれば、カタルシス(感情浄化)が得られます。一般に、複雑な社会では、原因がわからないことが最も大きな不安要因になるので、是が非でも何かのせいにする。そういう操作を「帰属処理」と言います。


ところが、しばしば原因の帰属先として「異常なもの」が選ばれます。コイツは精神障害だとか、被差別民族出身だとか。「異形なるもの」を作り出し、そこに原因を帰属させれば、共同体を手つかずで温存できます。普通の生活を送っている自分たちから見ると全然違う人たちなんだという「異形」のカテゴリーに押し込めれば、問題が自分たちの共同体の「外側」にあることになり、自分たちの共同体は問題から隔離されるんですね。こういう操作を社会学では「切断操作」と言います。」

これの典型例への批判として

この例も上の3つの例もそうですが、「切断操作」はカタルシスにはなっても問題の解決にはなりません。そういう意味で、とりあえず、「罪を憎んで人を憎まず」2.0を言葉にするなら、「切断操作を憎んで社会の流動化、多様化を憎まず」というところでしょうか。