汎用のブログ間対話プロトコルとしての「関心相関性」

構造構成主義とは何か―次世代人間科学の原理
構造構成主義とは何か―次世代人間科学の原理

この考え方をブログの対話に適用するとどうなるかという話。

専制君主としての「客観性」

「君の(あいつの)意見は客観的ではない」という悪口は、私が若い頃にはよく聞いたが、最近はほとんど聞かない。

日常会話の中でそういうことを言う人が客観的であったことの方が稀であるような気もするが、ともかく「客観的」であることが何らかの権威に通じていた時代の端っこに私は生まれている。だから、その失墜には多少の生活史的な実感がある。

日常会話の中と同様、学問の世界でも「客観的」という価値基準の権威は激しく失墜している。

この本で主張されている「構造構成主義」とその中のキーワードの一つである「関心相関性」という概念。どちらも、本質的に多義性を含んでいて、いろいろな説明の仕方があるが、私としては「客観性という価値からの戦略的撤退」と位置づけたい。

「構造構成主義」は、現代思想を前提にした科学哲学の再構築という側面も持っているが、従来の現代思想との違いは何か、再構築することの意味は何かと言えば、「客観性」を中心にした科学の権威に対して、攻撃側か守備側であるかの違いにあると思う。

科学哲学と言うと、科学の基盤を哲学的に整備する学問であって、科学の味方だと思われがちだけど、最近はどうもそうではないようだ。ほとんどの科学哲学は「客観性」という概念がいかにあいまいでいいかげんなものか、それを指摘し科学の権威を揺るがす議論に触れてしまう。悪意ではないだろうが、「客観性」の中身を精緻に問えば、現代社会で一般的に共有されている「客観性」ということの公共的な価値は揺らいでしまうものだ。

構造構成主義は、同じ議論を科学の権威をソフトランデイングさせる為に使う。つまり、「客観性」という真理の基準を相対化し、その専制から学問を開放するという意味では、現代思想の中の科学哲学の延長にあるが、それを破壊するのではなく、「客観性」を包含するもっと深い真理の基準を確立し、それと対立すると思われているさまざまな領域の価値判断の基準に接続しようとする試みである。

「客観性」と対立する別の真理基準を持つ別の領域とは、まずは、著者の専門である心理学を代表とするソフトサイエンスである。つまり、数量化、一般化、条件統制等のハードサイエンスの要件を満たさない(満たせない)が、それと違う形で、何らかの共有可能な真理の基準を持つ「学」である。

その最もラディカルな形としては、「現実の社会現象や、社会に存在する事実や実態、意味とは、すべて人々の頭の中で(感情や意識の中で)作り上げられたものである(だから「科学的」であること、自分の主張は客観的であると本人が主張することに特別の価値を置くことの正統性は何もない)」という、社会構築主義がある。

また、そういう広義の「学」をも逸脱した営みも、構造構成主義の対象となり得る。たとえば「構造構成主義とは何か」には「構造構成主義による甲野善紀古武術の基礎づけ」という章があるし、下記の本には従軍慰安婦論争を巡る信念対立についての論考がある。

構造構成主義の展開―21世紀の思想のあり方 (現代のエスプリ no. 475)
構造構成主義の展開―21世紀の思想のあり方 (現代のエスプリ no. 475)

「客観性の戦略的撤退」ツールとしての「構造構成主義

全く主観的な感想であるが、西條氏の関心は「客観的な科学」の救済にあると思う。つまり、思想や学問の外にいる多くの人にとっては、今でも素朴に認められている(がゆえに無用の反発がある)一方で、現代思想の中ではボロボロに負け続けという不安定な位置にある「客観的な科学」というものに、どちらにとっても納得可能な形で安定的な地位を与えようとしている。一般的な理解とは違うかもしれないが、私はそのように理解した。

現象学構造主義言語学と言った、現代思想のおなじみの概念を、西條氏は「客観的な科学」の戦略的撤退のツールとして使用しているのだ。

「客観的な科学」が、市民社会における公共性の基盤という、専制君主の地位にしがみついていたら、功罪ともに完璧に葬りさられてしまう。それよりは、特定の部分的な領域における大臣のようなレベルであってもいいから、とにかく延命することが緊急の課題である。

しかし、この「客観的な科学」という奴は、根っから傲慢で専制君主の気質があって、なかなかいうことを聞かない。「世界のてっぺんでなければ死んだ方がましだ」などとワガママなことを言う。上司としては優秀だけど部下にすると使いにくい奴だ。だから、これを無力化したり幽閉することはできても、自由意志を持たせたままで大きなシステムの一部として使いこなすことは、なかなかの難事である。

この難事の為に、西條氏は「客観性」を「関心相関性」のサブシステムとするという手法を編みだした。

関心相関性とは、「存在・意味・価値は主体の身体・欲望・関心と相関的に規定される」という原理である。→構造構成主義 - Wikipedia

「お母さん」をめぐる「関心相関性」

たいへん難解な概念なので、最近、私がトラックバックとしていただいた、一つの良エントリを素材として解説してみたい。

このエントリは、次の二つの読み方ができると思う。

  1. 学習障害を持つお子さんを育てている一人の母親の個人的な体験と感想
  2. 日米の公教育のシステム、およびその背後にある社会システムについての一つの重要な問題点を指摘する記事

どちらの読み方をしても素晴らしいエントリであるが、これを「二つの価値をたまたまあわせ持つエントリ」として見るか「さまざまに展開できる一つの価値を持つエントリ」として見るか、その違いである。構造構成主義は関心相関性というキー概念によって、後者の立場に立つことの思想的な意味を確立する。

これを公教育に対する「客観的」な問題提起として読み取った場合、id:michikaifuさんのお子さんの話は、その「客観性」を担保する一つの素材になってしまう。たまた著者が状況をよく把握している一つの事例でしかない。

しかし、私はそういう受け取り方をしたくはないと思った。

先生「お宅のお子さんは、本当はとっても頭がよさそうなんですが、書くのが苦手で困ります。もっときれいに字を書けるよう、ご家庭で指導してくださいね、お母さん。」

「仮に日本にいたら」という仮定の対話の中で使われ、強調されているこの「お母さん」という言葉にドキッとした。

まさに、私が元のエントリで主題とした「お母さん」という言葉の残酷さが、見事に表現されている。私は、こういう言葉をこういうふうに使う社会の一員であり「無責任の体系」の中にいると、自分では思っている。そのような私の「身体・欲望・関心と相関的に」私は元エントリを書いた。id:michikaifuさんはそこを正確に読み取られ、そこを起点として、充分に「客観的な」議論に耐えうる問題提起をしたと思う。

だから、私にとって、このエントリの価値は、この「お母さん」という言葉に集約される「一つ」のものである。「主観的な体験記」と「客観的な問題提起」という二つの別の価値を合成したものではない。

その中心にある「一つ」の価値は何かと言えば、それが「関心相関性」ではないかと思う。

このような読み方は、誰にでも共有できるものではない。それが共有される範囲は、読む人の「身体・欲望・関心と相関的に」規定されると思う。

日本という国にかかわっていてある程度論理的な思考ができれば、ほとんど誰にでも「客観的」な問題提起として読める。でも、それだけではなくて、私のような読み方もできるし、もっと狭く、学習障害など障害を持つお母さんであれば、さらに別の読み方もできるだろう。これに勇気づけられた人も多いのではないか。

このエントリは、読む人の関心によって、いろいろな受け取り方をされて読まれたと思うが、その関心にあり方の総体に、一つの連続性を見つける為の手法が、「関心相関性」であると言えるかもしれない。

汎用のブログ間対話プロトコルとしての「関心相関性」

こうとらえると、「関心相関性」はブログ間の対話の為のプロトコルにもなり得ると私は思った。

ブログは、世界中に開かれているので、公共的な意味を持つ。同時に、非常に個人的なものであり、ブロガーの「身体・欲望・関心と相関的に」規定されている。

その二面性が、さまざまな議論やすれ違いや衝突の原因となっている。

構造構成主義的に言えば、あるいは現代思想的な観点に立てば、ブログに限らずあらゆる言説がそうなのかもしれないが、ブログの場合は、その二面性があからさまに露出している。

id:michikaifuさんのエントリは、「個人的な体験」と「公共的な意味を持つ問題提起」が両立した稀有な例だが、この両者が複数のブログで一つの主題を巡って対立することの方が多い。個人的な独白が公共的な観点から批判されたり、公共的な視点から書いた主張が単なる個人の思惑としか理解されなかったりする。

その二面性が、さまざまな議論やすれ違いや衝突の原因となっていると私は思う。

「関心相関性」という難解な用語が「客観性」のようなレベルで日常的に使われるようになったら、衝突やすれ違いはもっと減るのではないだろうか。少なくとも、議論や衝突やすれ違いの公共的な価値について、広い合意が得られるのではないだろうか。

具体的に言えば、到底納得できないようなことを広言しているブログを見たら、そこに合意できない自分の「関心相関性」とは何かを自分自身に問いかけるのである。

あらゆる真理や事象や正しさ(と思われるもの)は、「関心相関的に」我々の前にあらわれてくる。何らかの対象に興味を抱いたら、同時に、自分の「関心」に同じだけ目を向けるのである。

そして、もし何か書きたいと思ったら、それを頭の片隅に意識しながら書くのだ。ブログにはアーカイブパーマリンクがあり、ブロガーの「身体・欲望・関心」は、何らかの形でうっすらとでも読者には見えているものなので、意識したことを明示的に必ず書く必要はないかもしれない。しかし、それを多少とも継続的に意識することで大きな違いが生まれると私は思う。

ブログやインターネットを価値あるものにするのは、上から一律に押しつける規範ではない。個別の対話に使用されるプロトコルである。そのプロトコルの基盤として、「構造構成主義」的な考え方は重要なものになると思う。