「巨大なラーメン」への構造主義的言い訳

すぐ前のエントリで取り上げた「構造構成主義」は、池田清彦氏の「構造主義科学論」を一つの源流としている。そこで池田氏の本も読んでいるのだが、「構造主義科学論」とは次のようなものであるらしい。

たとえば、e=mc^2 という方程式があって、eがエネルギー、mが質量、cが光速度を意味している。

方程式はあるものと別のものとの関係を表現するものであり、科学的な言明である為には、それぞれの述語の意味を厳密に決める必要があると一般的に思われている。

ところが、「構造主義的科学論」の立場では、述語の意味を決めること、つまり、記号と現実世界の事物との対応関係を定めることは重視されないらしい。というか、それが不可能であるという前提に立って、それでも意味がある「科学」とは何なのか考える思想であるらしい。つまり、e=mc^2という方程式は、各記号の意味と関係なしに一つの「構造」として論じる価値があるという話?

まだ本が読みかけなので、あまり自信が無いのだが、この理解で当たってるとしたら、私にとっては非常に都合がいい。

というのは私は、ブログの中でよく、用語の意味を厳密に定義しないまま物事を論じたり、新しい言葉を造語したりする。

その結果、自分が作ったはずの「グーグル八分」という言葉が、自分の意図と違う意味になって流通したりする。→(参照 アンカテ(Uncategorizable Blog) - 「再帰的グーグル八分」の時代の「グーグル八分術」の本

最近書いた巨大なラーメンというエントリもそうで、ここで、私は「ラーメンモデル」と「身分モデル」という対立する二つの概念を厳密に定義することなしに提示している。

いろいろ弊害があるし、読者を混乱させる可能性はあると思うのだが、半分確信犯的に私はこういうことをしている。

というのは、e=mc^2のような方程式に相当する何らかの「構造」を提起することが、私の第一に意図していることである。「ラーメンモデル」と「身分モデル」の対立図式のような「構造」が私の頭の中にはたくさん浮かんでくる。自分が他で見たことのないものも多くある。

そういう場合に私は、「構造」のみをブログエントリとして、とりあえず吐き出してしまう。

その中で使われている述語が何を意味しているのかは、あまり突き詰めて考えない。

ひどい場合には、それが現実世界の何とつながっているか全く見当もつかないまま書いてしまう。たとえば→アンカテ(Uncategorizable Blog) - 空気コロッケ団

「ラーメン」にしろ「コロッケ」にしろ、そこに何らかの「構造」はあると思う。全く新しい「構造」とは言えないと思うが、あまり見たことのない「構造」だと自分では思う。そういうものは書いた方がいいだろうと私は思う。

これは、物理的事象と関係ない方程式を数学的興味のみで研究するようなものだ。後からそれに対応する現象が見つかるかもしれないし見つからないかもしれない。わからないなら、とりあえず記録しておくべきだろう。

数学者が実用性と関係無しに数学的興味だけで突っ走るように、私は時に「アンカテ」的な興味のみであまり実用性を意識しないまま突っ走る。

「巨大なラーメン」というエントリはそういう意味では中途半端で、いくつかのコメントをいただいてからよく考えると、自分なりの意味はあって、コメントされた3人の方は、それと違う形でとらえているようだ。

ここにコメントをくださった、id:dekainoさん、id:rnaさん、id:ktdiskさんは、いずれも「身分モデル」を「市場経済の中のサブシステムとして身分という非市場的概念を使用する」というようなニュアンスで理解されているようだ。市場の中のプレイヤーを個人に近い概念でとらえ、その内部構造にあまり興味を抱かないのは、「自営業者の息子」としての私の偏向でありあまりいいことではないと思う。

私が対立軸として提示したかったのは、「市場」という概念を全く含まないような世界観(「身分モデル」)と、「市場」を基準に他のことを圧縮して考える世界観(「ラーメンモデル」)の違いである。ブクマコメントでは、そういう私の意図に添って受け止められた人もいたように思う。参考→はてなブックマーク - アンカテ(Uncategorizable Blog) - 巨大なラーメン

3人の方が受け止められた「身分モデル」は、私にとっては(広義の)「ラーメンモデル」の一つのバリエーションに相当していると思う。そのバリエーションの中では、一元的に「市場」のみに還元するモデルや、市場のプレイヤーの内部構造を一切斟酌しないモデルよりは、id:rnaさんが言うように適度に「身分」という固定的な構造を組み合わせるモデルの方が望ましい。それと違うレベルで、「市場」を含まないモデルを持つ人が多いように感じていて、この状況は適切でないと私は思っている。

また、私が意図しているのは、ブログやコメントを書くときのように意識的に頭を働かせて使う場面に使われるものではなくて、もっと日常的な談笑の中で深い自覚なしに駆動される暗黙の価値観、世界観の中での違いを浮かびあがらせることだ。実際、「組織」や「内部構造」について、ブログを書く時など意識的な思考の中では、私もそれを意識する。しかし、「談笑」の時には、その部分がオフになっていることが多い。それと同じように、あるモードに入ると自然と「市場」という概念がオフになる人がいて、それが意外に多いのではということだ。

そういう意味で、「構造」と「事象」のマッピングにおいて、私の(暗黙の)意図とは違う話になっているとは思うが、それが唯一の正解であるということにはならない。むしろ、「構造」をどのような「事象」にマッピングしたらいいか、有用か、ということは、読む方一人一人が好き勝手に考えてほしいと思っている。

議論を成立させる為には、「構造」の共有と同時に、その「構造」の中の各要素を何にマッピングして使っているか、それについて合意する必要がある。だから、今回のように問いかけられた場合は、マッピングについて(時間的に許す範囲で)自分の意図を掘り返し明確にするつもりだ。

しかし、それがブログを書く時点で私の頭にあったマッピングではない場合もあるし、それが唯一の正解ではないし、特定のマッピングの正当制について決める特別の権利が自分にあるとは私は考えていない。私は多くのブログエントリを、何らかの「構造」として書き、共有物としてアップロードしている。自分はその「構造」の所有者ではなく管理責任者であると考えている。同時に(自分の思考のツールとするという意味で)「構造」のユーザでもあるが、アップロードした以上は特別のユーザではなく、あくまで一ユーザである。

また、一応、誤解ないように言っておくが、私がブログで提示する「構造」が相対性理論のように素晴らしい価値があるものだと言っているのではない。ただ、「構造」であるという一点においては同等のもので、その「構造」の価値は、現実世界とのマッピングに関係なく成立するという「構造主義科学論」的な立場(の俺流解釈)に、私は立つということである。「構造」の価値は他の「構造」との関連によって決まるので、事前に確定することはできないが、その関連によっては時に公共的な価値が生じるとも考えるので、何か思い付いた時には、時間の許す限り書いてアップロードするようにしている。

なお、まだ読み終えてないけど、なかなか面白そうな池田氏の著作は以下の3冊。

構造主義科学論の冒険 (講談社学術文庫)

さよならダーウィニズム (講談社選書メチエ)

科学とオカルト (講談社学術文庫)

それから、id:ssuguruさんが発掘してくださった、本ブログの似たようなテーマのエントリとして、