亡びるのは国語でなくて国民国家では?

これは重要な論点だと思う。

日本語という「国語」は、国家統合の要であり、象徴なんです。

日本語を話すから、「日本人」という共同幻想のメンバーに加わることが出来る。

むしろ、英語がコミュニケーションツールとして使われるようになればなるほど、日本語は「高級な言語」「国語」として、歓迎され、階層の高さを表す一つの教養としての扱いを受けるでしょう。

国民国家というフィクションに一定のリアリティがある限り、「国語」としての日本語は無くならないし、危機に直面した時に、むしろ求心力を増す可能性もあると私も思う。

でも問題は、国民国家としての日本がそのまま残るかどうかだ。

人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか
人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか

この本の中で、著者の水野氏は1995年を境にしていろいろなものが反転してると言う。その一つが国民国家という枠組みの有効性だ。

1995年までは、大きな政府の方がパフォーマンスが高く、一国の中でどこか景気がよくなると他の所に波及していた。でも、今はそれが逆転していて、小さな政府の国の方が景気がいいし、特定の国の特定のセクターで景気が良くなると、それが別の国の特定のセクターに波及する。それが、さまざまな経済統計を駆使して示されている。

1995年までは「国民国家」というフィクションには経済的が裏付けがあった。東京の大企業が世界進出してアメリカを制覇したら、自分は地方の中小企業に勤めていても、我が事のように喜んでいればよかった。ちょっと待っていれば、それが経済的に回り回って自分の所にも波及してくるからだ。

でも今は「グローバル経済圏」と「ドメスティック経済圏」は全然連動してないそうだ。

その境界がなんで1995年なのかについては説明が無いし、出てくるグラフや指標も、相当こねくり回した数字のように思えるので、素人には正当性が判断つかないけど、「国民国家」というものが消えつつある様子がよくわかる。

「国語」は、簡単には衰退しませんよ。

グローバリズムが簡単に国民国家や民族や宗教を駆逐するどころか、かえって強化したように。

確かに、グローバリズムに対抗する形で、民族や宗教の力は強まっている。でも、基本的にはその力は国民国家を解体する方向へ作用すると見るべきだと思う。どこの国でも、国民国家は内と外に引き裂かれて消滅しようとしている。

というか、民族という枠組みでは狭すぎて経済や軍事の面で不利であり、図体がでかいだけの帝国では求心力が保てないから、当時の状況でちょうどいい所で切ったのが国民国家である。

日本という国は、明治以降になってから明確に外国の存在を意識して人為的に作られた国であり、江戸以前の日本とは別の国だ。夏目漱石は自分が生まれた頃に新しく作られた、その近代日本という国において、どういう言語を使ったらいいかということを生涯のテーマとした人だ。

国民国家」としての日本と、民族としての日本は、たまたま似たような境界線を持っていたけど、それが良かった面と悪かった面があると思う。

こういう所に生まれた人は、おそらく、常に「自分は何者か」というアイデンティティが揺れ動いているだろう。文化、歴史、言語等の面で帰属する先と、国が一致してないからだ。だから、政治的な紛争が長く続いている地域も多いし、そうでなくても、個人的なアイデンティティが自明でないことに悩むことになる。

でも、その分だけ、「国民国家」に対して自分が何を守るべきなのかは明確だ。

日本ではそれが明確ではない。たとえば、神道というものが国家神道にのっとられて変質してしまっていて、地元の神社の氏子の会合に行くと、「素手で集団トイレ掃除運動」 みたいなことが好きそうなおっさんがいっぱいいたりする。

だから、明治維新で作られた近代的な国民国家としての日本が消滅した時に、何が出てくるか予想つかない。それがイメージできない分だけ私にも実感がわかない所もあるが、国民国家としての日本は消えつつあり、漱石に象徴される一つの言語が亡びつつあるのだと思う。

そういう意味で、「あたし彼女」はやはり象徴的だ。あれは、夏目漱石の使った言葉とは違う言語だけど、枕草子には接続できるような気がする。


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