恥をかかない為の政治?

先日、クローズアップ現代で「若者の投票率低下」をテーマにしていて、きちんと全部は見れなかったけど、なかなか面白かった。

印象的だったのは、投票者の平均年齢を取ると、何年か前までは37,8才だったものが今は52才ということだ。数字は記憶違いがあるかもしれないが、とにかく、その平均の年齢が自分の年齢を通り過ぎていたことをよく覚えている。40代後半の人間が政治について何か発言すると、昔だったら長老のはしくれだったのが、今では若造の一人ということになってしまう。

ただ、「何故これがよくないのか」ということを分析しないまま、いきなり対策の話、どうしたら投票率を上げられるかという話になっていて、そこには違和感があった。

「若者の投票率低下」がまずいのは何故だ。

そもそも誰にとって、それがまずいのか。

今、政治的課題となってるものの多くに関して、若者と高齢者の利害は対立している。高齢者にとっては、若者が投票所に行きはじめることは良いことなんだろうか。NHKにとっては良いことなんだろうか。

もちろんNHKは公共放送なんだからポジショントークをされたら困るけど、平均的視聴者がこれを見て何を考えることを想定して番組を作ったのだろうか。

それについてしばらく考えて、思い出したのがこのエントリ。

日本人にとって「国語」とは何なのだろう、という話は以前から疑問に思っていたのだが、この本を読んで「ああやっぱりそうなのだな」との思いを新たにした。

どうやら日本人にとって国語とは「人前で恥ずかしい思いをしないような言葉の使い方」であるらしい。「何かを伝えるための手段」では無いし、「言語によって論理的に思考するための方法」でも無い。

言葉を替えると、「自分が集団の一員であることを示し、仲間外れを防ぐための手段」ということになるだろうか。学校の国語教育がそれを目指すのも当然と言えば当然だし、コミュニケーションや論理的思考の方法を国語の時間に全く教えないのも致し方無いことなのだろう。文芸観賞に流れがちなのも、「大人になって恥ずかしい思いをしないように」文芸作品を教養として知っておかせたいという配慮が遠因にあると見る。

日本人にとって国語が「恥をかかない為の国語」であるように、政治は「恥をかかないような人並の政治が持てればよい」ということにすぎないのではないだろうか。

たとえば、知事を選ぶ時には他県からサゲスマされるような変な知事でなければ誰でもいいし、首相や大臣を選ぶ時には、日本語をちゃんと読めて酒に酔って記者会見したりしない、外国に見せても恥ずかしくない政治家ならば誰でもいい、そんな感覚ではないだろうか。

そう考えると、若者が「そんな面倒なことは年寄りがやってろよ」と言って逃げ、年寄りが「だから近頃の若者は」と言って嘆くのはわかるような気がする。問題のクローズアップ現代は、特に後半が、そうやって年寄りが嘆くネタとして、うまくハマるように作ってあるように感じた(これはちょっと意地悪な見方かもしれないけど)。

若者に投票所に行かせたければ、「このまま年寄りだけに政治をまかせていたら、君達の生活はメチャクチャになる」と言えばいいだけのことだ。

NHKがそこをどう考えているのか知りたかった。

今の年寄りは、昔の年寄りみたいに、子孫のことを先に考えて行動しているのだろうか。

年寄りが年寄りというだけで無条件に尊敬されるのは、そういう習慣を持つことが、集団として生存競争に有利だったからで、その理由は次の3つだと思う。

  1. 昔は年寄りが少なかったから、年寄りの意見にウェイトを置かないとバランスが取れず、集団全体として思考の多様性が保てない
  2. 年寄りには多くの経験があるので、若者より判断の材料が多い
  3. 年寄りは自分自身の将来より、子孫の行く末の方に関心があるので、長期的な観点からモノを見る

こういうふうに理屈をつけて分析しないと年寄りを尊敬できないようでは、そんな部族は意思決定を間違えて滅びてしまうので、理屈を考える前に無条件に本能的に年寄りを尊敬するように人類は訓練されてきている。それが、集団としての生存の為に最適なことだったのだろう。

しかし、この3つの理由が成立するだけの条件が満たされなくなったら、植えつけられた社会的本能に逆らって、若者が年寄りから実権を奪うべきだと思う。集団の生き残りの為にはそれが必要になる。

この3つの条件は今も満たされているだろうか。

特に、年寄りが自分たちより子孫のことを先に考えているのか、それをよく確認してみろ、と私は若者に言いたい。

年寄りは今も子孫やこの国全体のことを長期的に考えているけど、どこか考え方が違うから、こういう政治になっているのだろうか。そう思って、自分には異議があるけどここは経験のある年寄りの言うとおりにしてみよう、というなら、それはそれで一理ある。

でも、投票所に行かない若者の大半は、そういう考えではないだろう。

政治や国語みたいな「品格」っぽいことにかまってられるほど余裕がない、ということなんだと思う。

政治とは、人間の集団がものごとをきちんと決めていくことである。人間の集団が、これをしないで生き残ってこれたことって、歴史上、きわめて稀にしかない。

今の日本に住む年寄りが生きてきた期間が、ほとんどその極めて例外的な期間に相当する。

彼らの人生のほとんど期間において、現状維持、すなわち政治や決断の不在、には何もリスクが無かった。政治をしたりや決断をしたりする時には、何より先にリスクについて考えることが必要だった。

それは彼らの罪ではないし、そういう時代に最適化して生きてきたことを責める必要はないけど、今、そういう年寄りたちの「経験」にまかせるって、ものすごく無茶なことだと思う。

現状維持を望むだけで極めて高度な政治を必要とする、日本は今、そういう位置にいる。政治をツールと考えて、使いこなしていかなくてはならない。

ツールってのは、パソコンと同じで、全部理解しないと使いはじめてはいけない、というものではない。とにかくまず、触ってみないと何も始まらないものだ。100%全部わかってる奴なんていないし、中のごく一部のパーツについて専門的知識がある人だって珍しいくらいだけど、だいたいみんな普通に使ってるでしょ。

人間は誰でも人間として尊重されるべきであり、それは年寄りも若者も同じだ。しかし、存在そのものを尊重することと、意見を尊重することは違う。年寄りを人間として尊重することは必要だけど、年寄りの意見を聞いてはいけない。少なくとも、何故自分がそれを尊重するのか、よくその理由を考えるべきだ。

まして、政治をまかせたりしてはいけない。

政治がどういうものなのか、年寄りの概念で考えてはいけない。


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