「ぼやく」「嘆く」という仕事はもういらない

セカンド・カップ はてな店 - 年寄りメディアを無視する思考習慣の、id:Soredaさんのお母様の筑紫哲也論が面白い。


母は、いわゆる戦後民主主義の申し子のようなおばちゃんなので、基本的には筑紫風論説に抵抗はないどころか、賛成だわ、とならなければならないはずの部分を多く持っているのだが、実際には非常に苦々しく思っていた様子で、ある日一緒にテレビを見ていた時、母は、意を決したように、「この人はもうやめるべきだし、出てくるべきでない」と言い出した。


母によれば、この人はこの人で若い時に考えたことや今でもそれが正しいと思っていることがあるのだろう、しかし、今それがそうなってはいない。この時、この人はそれを「嘆いている」。これは年寄りには多くありがちだ。しかし、もっと若い人、もっと遅く生まれた人は、嘆いている場合ではなくて、どういう問題であれ解決しなければならない。ぼやいて足りるなら、それはもう十分にぼやくことが役割となっていてもいいような生き方を獲得しているからだ、と。


だからそういうことは、同じようにぼやいて足りる老人たちとやればいいんであって、それを公共の電波で、毎晩毎晩発信しているのは害だと言うのだった。(言うまでもないが、年を取っていることとボヤキ好きは重ならない)

逆に言えば、日本は「ぼやくという役割」を必要としていたということだろう。

私は、これが日本の歴史につながる、根の深い問題だと考えている。鎌倉幕府の創設時に、「嘆いている場合ではなくて、どういう問題であれ解決しなければならない」という役割を武士(鎌倉幕府)が担当し、「ぼやくという役割」の為に、貴族と皇室を残した。この役割分担が日本人の政治的な意識には深く刻みこまれている。

日本の公共性はどこに?


唯一違うのは、「責任」がある人が、日本では武士であるのに対し、ヨーロッパでは貴族であることだ。ヨーロッパの貴族は「公的領域」を担う人で、少くとも建前としては私的な利害を離れて全体のことを考える人だ。それができなければ、「市民」ではなくてポリティクスに参加する権利がない。持株会社には、そういう貴族=エリートが集って、ちゃんと責任を持って全体を仕切る。日本の本社のエリートは口ばっかりで、現場の方に「プロジェクトX」的な責任感を持った「武士」がいる。

検非違使の末裔がブログを書き始める日


つまり、内向的な価値観によってドライブされる組織が、内部の独特の価値観に従わない存在、何らかの物理的な実在や犯罪者や異文化の集団等に接した場合、「令外の官」を設けることで、内的な価値体系の整合性を維持したまま、環境に適応しようとするのだ。

つまり、「筑紫風論説」は、汚れ仕事には手を染めない貴族の末裔であって、日本人の精神は、それを必要としているのだと思う。

こういう人たちがボヤいている裏で、検非違使=武士が着々と実効的な作業を進めるというやり方が、日本人にはしっくり来るのだ。戦後日本において、その検非違使=武士的役割を典型的に担っていたのが、元橋本派に代表される土建政治なのではないだろうか。

だから、皇室が幕府の領分に手を出さないように、「筑紫風論説」は、本気で政府の側に立った内実のある政策を口にしない。また、武士が皇室や貴族を本気でつぶさなかったように、自民党も理念をかかげて「革新」の側を徹底的に論破してつぶすようなことはしない。暗黙の役割分担があるように思える。

高度成長の時代に、昼休みに朝日新聞を読んで政府を批判しながら、飯を食い終わると、公共事業のおこぼれのような仕事にはげむモーレツサラリーマンが数多くいたのではないかと思う。そういう典型的サラリーマンの精神の平衡を維持する為には、空虚な批判、「嘆き」が必要だったのであり、そういう意味では、「筑紫風論説」は、戦後日本の中で重要な役割を果たしてきたのかもしれない。

しかし、2ちゃんねる小泉人気は、このような役割分担を否定する動きの現れであり、日本人の精神が大きく変動していることのシグナルではないかと思う。