技術大国日本を食い物にしたのは誰だ!

日立製作所、550億円の黒字が赤字にという話は、酔うぞさんによると

今回発表した2006年前期の業績予想は

   修正前  売上高 4兆5900億円、営業利益 560億円
   修正後  売上高 4兆6600億円、営業損失 170億円

です。 これに、1000億円・2000億円といった賠償額が掛かってくるとかなり大変なことになりますね。

ということで、これはただごとではありません。

一件の設計ミスが何千億円もの損失を生んでしまったということなので、この突出した大失敗をどこまで一般化していいものかとも思いますが、失敗学的に言えば、表面化した一件の事故の背後には、たくさんの隠れたミスがあるそうですから、何かが起こっている気がします。

蒸気タービンのような歴史の長い装置に事故が起き、それも原因が設計上の問題というようなもの作りの上流の話になって来ますと、どうしてだろうと思わざるを得ません。その歴史が長いことは、過去に一度ならず幾度も大きな事故が起きて、その教訓やら反省やら当然の如く次の設計に反映されて行くのが普通ですから、自ずと問題点は淘汰されどんどん構造は洗練されて良くなって行くのが自然の流れです。そんな枯れた装置で今般の事故が起きたことは、新規設計で定石を踏まなかったか踏み忘れたか、はたまた未知の新たな要因(従来と大きく異なる使い勝手をした、従来と異なる条件が加わった、等)が出現したのか? それとも、昨今頻繁に起きている各種事故原因の人為的なミスによることなのか? 聞くところでは日立は総力を挙げてこの問題に取り組んでいるとのこと。国際的な重工業の技術レベルを維持して欲しいと思います。

酔うぞさんも、この方と同じように驚いていらっしゃるようです。

大型タービンは日本が得意とするものの一つで、船、火力発電所、石油プラントなどで大量に使われていて原子炉本体になどに比べると「枯れた技術」だと思っていたのですが、こんな事が起きるとは予想をはるかに超えていて驚いています。

私は、重電系の技術については全く知りませんが、ここで気になるのは、「継承すべきものが継承されてない」のではないかと言うこと。そこで、一見全く関係ない、次のエントリーを思い出しました。

つまりこの世代連中ってあれか、少年期には犯罪やりまくり、社会人になってバブルでやりたい放題、んでもって老年期になってわが身かわいさに資産ため込んで、ついでに年金たんまりもらって死んでく世代かよ。

なぜかと言うと、この世代の最も大きな問題点は、歴史と宗教の軽視だと思うからです。

”非理性的に行動することは神のあり方とは矛盾する、という考え方は、単にギリシャ的な思想なのか、それともそれは本質的に正しいのか”という問いである。この問いは、キリスト信仰がいかにしてギリシャ的な理性と融合するにいたったか、という近世、現代、最後には本人にまでいたる研究の話に展開されてゆく。

話がどんどん飛びますが、技術を社会の中に位置付ける為には、信仰と理性の葛藤という問題は避けて通れない問題です。

kom’s logさんのこのエントリーによると、ローマ法王イスラム教に対する偏見を公の場で口にしたと報道されている失言問題には、非常に深い背景があるようです。つまり、キリスト教には、理性と信仰の葛藤という問題に関して、苦い歴史を含めた膨大な議論の蓄積がある。ローマ法王の失言はその自負がちょっとマズい方向に出てしまって口をすべらせてしまったもののようですが、「イスラムの人たちはこの難しい問題についてどこまで真剣に考えているのか」という問い掛けは重要なものです。

と同時に、これは日本教信仰と理性の葛藤という問題として、我々にもそのまま突き付けられている問題だと思います。

私は、これが日本の歴史につながる、根の深い問題だと考えている。鎌倉幕府の創設時に、「嘆いている場合ではなくて、どういう問題であれ解決しなければならない」という役割を武士(鎌倉幕府)が担当し、「ぼやくという役割」の為に、貴族と皇室を残した。この役割分担が日本人の政治的な意識には深く刻みこまれている。

そして、こういう実務派をささえる信仰として、鎌倉新仏教が生まれ彼らを支えたのだと思います。

終戦直後の日本も、同じように「嘆いている場合ではなくて、どういう問題であれ解決しなければならない」という役割をプロジェクトX的に背負った人たちがいて、無名のそういうたくさんの人たちが、技術大国日本を築いたのだと思います。

若い人は笑っちゃうかもしれないけれど、ほんの5年ぐらい前までは、日本中の医者というのは 本当にこのお題目を信じていて、それを達成するためだけに命をかける人までいた。

どこの科に進むのかという問題も、労働時間とか、収入とか、そういう本当の理由じゃなくて、 みんな「これが患者さんのためになると思ったから」。こじつけだろうがなんだろうが、 その理由、または言い訳を、必死になって探したもんだった。

拘束時間の長さ。感染の危険。私生活の犠牲。

こうした要素は、厳しい科の「魅力」にこそなれ、 それが理由で人が集まらないなんていうことはありえなかった。

彼らを精神的に支えていたものは何だったのか、それは信仰に限りなく近いものであったはずで、それをおろそかにしてはいけなかったのだと思います。

反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だで指摘されている「昭和27年ごろから昭和40年ごろに多発してた少年凶悪犯罪をやらかしてた世代」っていうのが、そういうことを最もいいかげんに考えていた世代ではないかと思います。私の言い方で言えば、人間の双極性というものを徹底的に無視した世代。

社会と信仰と技術の関係は、彼らが考えているよりずっと複雑です。大型タービンをいつもちゃんと生産する為には、技術と組織とお金の他に、技術者たちを精神的に支える何かが必要であったはず。そこをちゃんと手当でしないでつぶしてしまったのは、この世代ではないでしょうか。キリスト教世界が1500年以上苦しんできたその葛藤を、あまりにも安易に先送りしてしまったんです。今となっては、わずか5年前の医者が何でそんなに一生懸命だったのか説明できないし、10年前の技術者がなぜきちっとした仕事をしていたのかも説明できないでしょう。

それの根本的な原因は、その世代のモノポール的自己認識だと思います。

自分たちを支えているものを全部自分が把握してると思うから、把握できてないものを存在してないものとしてぞんざいに扱ってしまったんです。自分たちの社会や仕事の成り立ちが、自分たちが思うよりもっと複雑なものであるというごく基本的な認識があれば、歴史というものを尊重することができたはず。歴史というものを尊重していれば、戦後の日本がどのように発展していったのか、そこにどのような葛藤があったのか、自分の内部の問題として感じとれたはず。

戦後の日本には、非常に非論理的で献身的な技術者や医者がたくさんいたのです。彼らの成果だけをかすめとって、彼らが非論理的で献身的であったことを笑う文化を作ったのは誰でしょうか?

非論理的に論理のかたまりである技術というものを扱う彼らの中にあった葛藤を、社会全体で背負うべきであったのだと思います。

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