ひとりでやってみんなに知らせる

日本的経営の悪しき部分の象徴のひとつは、非能率的な会議だろう。

なぜ会議が非能率的になるかと言えば、関係無い人、そこにいる必要無い人がたくさん出席するからだ。

そこにいるが必要無い人をなぜ呼ぶかと言えば、呼ばないとその人の感情を害するからである。感情の為だけに呼んだ人が口を開くと、説明は長くなり質疑応答が迷走し物事が決定しないまま会議が終わることになる。

しかし、そういう配慮をたくさんしないで仕事を進めると、悪しき日本的経営の中では「独断専行」と言って嫌われる。

独断専行と非能率的な会議は、どちらも情報の行き渡る範囲が権力だという前提の発想だ。情報を特定の少数の人間が独占してしまうのが独断専行であり、そういう批判を避けようとして、情報を事前に広く行き渡らせようとすると非能率的な会議になる。

もちろん、その中間に最適解があるはずだが、ある情報がどこまで広まることが適切なのか考えるのはかなりの難事で、それを真剣にしたらそれだけでエネルギーを使う。社内の組織に対する事前の調査、勉強と集中的な思考を要求する。

それが適切にできる人が優秀な人で出世するのだろう。それは人を選別するシステムとしてはよくできているかもしれないが、彼らが社内の競争を勝ち抜く間、彼らのエネルギーは半分以上会社の中に向かうことになる。本当に優秀な人であるなら、外に目を向けさせるべきではないか。

結局、物事を決定する権利と情報へのアクセス権を連動させたのが間違いなのである。

独断は許すが情報の独占は許さないことはできないだろうか。事前事後に情報を周知することを義務とする。周知すると言っても、誰かが何かを知らされたことによって、自動的に権限が発生したり、責任が発生したりすることもない。

むしろ、全ての情報をpullでアクセスするようにして一切の制限はかけないのがいいだろう。つまり、全社員がブログで業務日誌を書き、そのブログ全部を社内全員の共有財産とする。

これを前提として、「誰が何を決めるべきか、何をどこまで決める権限があるのか」を整理しなおしたら、随分スッキリしてくるのではないだろうか。

「ひとりでやってみんなに知らせる」メディアとしての社内ブログを活用することで、独断専行と非能率的な会議の二律背反を脱することができると思う。

すでに「何事もひとりでやって(決めて)みんなに知らせる」ことが常識になっていて、それ以外のルールが限りなく大ざっぱな企業もたくさんあるのかもしれない。ベンチャーならそれで充分回るし、規模が大きくなってもそのルール一本だけで仕事が進められる範囲は意外に大きいのかもしれない。付加するルールや職務分担表は、限りなく薄いものになるのかもしれない。