オーケストラ経営に見るアメリカの公共性

ロス・アンジェルス・フィルハーモニック管弦楽団のアシスタント・コンダクターである、篠崎靖男さんという方が、アメリカのオーケストラの経営についてアメリカのオーケストラの経営と、指揮者の役割という文章を書かれています。

「役所」的なものを信頼せず、個人をベースにどのように公共性を維持していくか、というアメリカ社会の独特の仕組みがよくわかってくる気がします。


最初に言っておきたいことは、オーケストラはまったく営利団体ではない。チケット収入だけでは赤字で、つまりはコンサート収入以外の部分が必要となる。


アメリカでは、自治体のバックアップは僅かなもので、ほぼ一般の寄付金に支えられているのが、ヨーロッパとの大きな違いだ。


興味深い事に、事務局に寄付金集め部門があり、25名働いている。マーケティング部門は15名だ。


こういった寄付金集めのシステムは、むしろ、大学や、病院のほうが進んでおり、特に大学などは1つの建物がすべて寄付金集めの部署である事も珍しいことでは無い。彼らは卒業生個人個人の収入の変化、ポジションまで把握しており、それに応じ、寄付を呼びかける。それに加え、アメリカというのは、基本的には宗教的な国から始まった事も大きい。教会で寄付するのが一般的で、寄付に対してとてもスムーズな気持ちを持っている。税金の控除対象ともなっている。アメリカならではのシステムと言える。


芸術部門をすべて統括する音楽監督と、経営を統括する支配人の上に、理事会が最高決定機関として存在している。音楽監督、支配人を雇うのも、形式上は彼らであり、実際にも大きな力を持っている。これはアメリカの企業ともよく似たシステムだが、違いは、オーケストラ理事会のメンバーは無報酬だと言う事、それどころか、彼らに一定額の寄付金を要求するオーケストラも多い。(ロス・フィルもそれに当てはまる。)大企業経営者、弁護士、コンサルタント、有名人、医者等、社会的にも認められた人々が選ばれ、実際の選考に関しても、大変慎重に行われる。つまりはロス・フィルのような大きなオーケストラの理事会に入ることは、大きな社会的ステータスにもつながり、彼らの実際の仕事上のポジションにも大きく関わる。

これと対になるような話が、セカンド・カップ はてな店:公教育の周辺です。


が、しかしアメリカって、ふと思えば、home schoolingとかいって、自宅で子供を教育するという人がいる。これはつまり、公教育そのものを信じてないっす、ということだ。


でもって、たまたま知ったのだが、この自宅学校で教えられている子供の数は、教育省からの公式の数字では85万人、しかし、自宅学校を支援する団体さんが言うには、200万人はいるだろうと言われているんだそうだ。200万というのは就学年齢の子供の4%にあたるそうだ。


どっちにしても、政府を信じない、タックスも払いたくない、教育も受けたくない、つまるところ、俺らをほおっておいてくれ、という人々はアメリカの根本に太く強く存在している。銃もそうだ。これがどこまで行くのかは疑問としても、日本、カナダ、ヨーロッパ諸国とアメリカの根本的な差異がここにあると言ってもいいんだろうなとは思う。

さらに、微妙に関係してくる話がSOUL for SALE :: 匿名への信頼です。


つまり僕らが「匿名性」の問題だと思っていたものは、実は、見知らぬ他者に対する「信頼」の問題だったのだ。


山岸によれば、「日本人は集団主義的で、アメリカ人は個人主義的」という通常の文化理解とは裏腹に、社会的ジレンマ状況における協力ゲームでは、見知らぬ他者はとりあえず信頼してみるというアメリカ人に対し、内輪の人間でない相手に対しては容易に裏切りをする日本人、という実験結果が出るのだという。


その情報の「品質」の判断は、ジャーゴン化などによる、コミュニケーションのローカル・コンテクストへの落とし込みによって贖われていたのではないか。

ローカル・コンテクストの共有から自動的に派生する公共性というものを、アメリカ人は信じません。だから、子供を公教育にまかせることも嫌がるし、オーケストラのような文化的な事業も自治体にまかせようとはしないのです。

しかし、徹底した個人主義のみでは社会は回らないので、その「役所」的「公」への不信を補う、別の信頼があるはずです。「役所」的「公」の公共性とは別の公共性に多くの役割を負わせているはずです。

それが何なのか、篠崎靖男さんの文章から、汲み取れるような気がします。

オーケストラの運営の資金面で重要な役割を負っているのは、寄付金集め部門で働くマーケッテイング、資産運用のプロの人たちです。この人たちは、志よりプロとしての技能を期待されているように見えます。おそらく、パフォーマンスを評価、査定されて、市場の中での競争に身をさらして仕事をしている人たちです。

そして、もう一方に寄付をしたり理事会に参加するという形で貢献をする成功者、富裕層がいます。成功者はこのように自分に直接の利益がなくても、社会に対して一定の貢献をすべきだという意識があって、社会システムもそれをサポートするようにできているようです。市場の中で勝者となった人たちが、自分の判断でお金を使い道を考えることができるようになっています。

市場と個人のみを信頼し、それ以外の「公」の役割をなるべく減らそうという、アメリカ社会のある一面が典型的に現れています。そして、この事例は、それが非常にうまく機能している例でしょう。

「内輪」への信頼のみで社会が回ってきた日本とは対照的です。これを見ると、逆に、日本人にはこんな離れ技は不可能だ、という気にもなりますが、「内輪」への信頼を失ないつつあるのは間違いないので、何でそれを代替していくのか、意識的に考えないわけにはいきません。