罵倒から生まれる公共性
高速道路が渋滞している時に、合流の所でお互いに譲りあって一台づつ交互に進めば全体として一番早く進む。我先にと進路を奪いあえば、流れは滞るし、接触事故なども起きやすく、平均の流量は最低になる。
この譲りあいの暗黙のルールが守られる度合いは地域によって違うと聞いたことがあるが、自然発生的にそれができていれば、自分が譲ってもすぐ次に行けると期待できるので、自然と譲る人が多くなるだろう。
「一台づつ交互に」というのはマナーでもあるがプロトコルでもある。
プロトコルが存在していれば、ドライバーの平均のマナーレベルが低くても、つまり、他人より自分を優先して考える人が多くても車は進む。その逆に、譲る気持ちを持ったドライバーの存在密度が高くても、プロトコルがないとマナーのレベルの低いドライバーの行動様式が全体を支配する。
プロトコルが存在しない所にプロトコルを確立するには、マナーが必要である。だが、すでに確立しているプロトコルとマナーが同時に崩壊していく時代に生まれたとしたら、どちらを優先して守るべきかははっきりしている。
プロトコルを守っていけばマナーが低下しても秩序は保たれる見込みがあるが、プロトコルが崩壊したら、マナーの有無はほとんど無意味になる。プロトコルを守るべきだ。
ネットの大衆化は、昔からやってた人にとっては、悪夢のような末法の世で、何もわかってない素人が次から次へと参入してきて全てが滅茶苦茶になって崩壊していく過程である。既に確立しているプロトコルをいかに守るかは切実な問題である。
ちょっと古い話題だけど、こんなことがあった。
HTTPのステータスというのは、プロトコルの重要な要素である。相手がこれを正しく使うと思えば、自分もこれを正しく解釈するプログラムを書く。相手が間違って使うと思えば、自分も間違ったプログラムを書かなくてはならない。
正しい使い方はひとつしかないが、間違え方はたくさんあるので、間違った相手に対して相手の間違いに適応するには、そういう馬鹿の数だけ場合分けを書かなくてはならない。
自分は特定の馬鹿の相手をしていればいいので、馬鹿に馬鹿と言って問題をこじらせるよりは、自分も馬鹿になった方が楽だ。
合流で割り込む奴に注意するよりは、次に自分が割り込んでしまった方が、個人の問題としては最適な行動である。
でもそうやって馬鹿を放置すると、それを見習う馬鹿とそれに適応する馬鹿が量産される。それらの馬鹿は全部違うプロトコルを使うので、自分の後に続く人は、たいへんな苦労をすることになる。たいへんな苦労をする人たちの中に自分自身も含まれることも多いので、そこを指摘し直させることは、合理的な行動であり、みんなの為にもなる。
少なくとも、配信停止してるならHTTPステータスコードで200を返すべきではない。 失敗しているリクエストに「成功」を返すな。
だから、これは非常にまっとうで重要な指摘であり、公共性の高い発言だ。ただ、この発言には次のようなおまけがついていて問題になった。
「著作権保護のため一部表示」とかは、まあ、色々事情があるだろうから察するところもあるけど、 これは完全にエンジニアが無知で無能でクズ。アホでバカ。低脳でワーキングプア。
「技術的には正しい発言だけど罵倒が余分である」と批判する人が多くいた。
だけど、私は、この罵倒の部分にも重要な意味があり、ある意味必然であると思っている。
というのは、日本語というのは丁寧に書くと、公共性が失なわれてしまうからだ。
これをまともな日本語で書いたら、「livedoorの一担当者からameblo担当者様への要請」となってしまい、特定の私企業の間の私的な通信になってしまう。
罵倒により、このエントリは、まともな人間の構成する社会(=「私」の集りとしての社会)から離脱してしまう。もはや頼るものは発言者から切り離された文言の正しさのみで、その正しさが吟味される過程で公共的な文脈を得ることができるのだ。
企業のような自分の所属する集団を「私」と見て、それと対比するような意味での「公」の立場から語るというのは、本来日本語に無い機能だ。しいて言えば、二条河原の落書のようなスタイルがそれに当たるだろうが、mala氏はそういう日本古来の伝統を正しく継承しているのかもしれない。
問題を整理すると
- HTTP(のステータスの使い方)という、「既に確立されて実利を上げているプロトコル」に関する問題であること
- 特定の関係者同士の私的な利害の問題ではなく、公共的な性質を持つ問題であること
- ここでプロトコルを維持することの利害は多くの人に関係するが、それが見える人は少数であること
- 問題に公共的な性質があることを強調する為には罵倒付きという表現方法が有効であること
3が特に重要だが、これはサーバ同士の通信に関わる問題である。amebloが間違ったステータスを返しても、今困る人は、RSSリーダという特定のソフトを開発しているプログラマだけだ。
だが、プログラム同士がHTTPで通信するケースは、今後、加速度的に増えていき、それによって今までにないようなWEBの応用範囲が広がっていく。HTTPは、そういう機械対機械の通信でも標準として使える可能が充分持っているプロトコルである。
ただし、HTTPの標準は、アーキテクチャとして強制力のあるものではない。使う側が社会システムとして意識的に維持していかないと機能しない。
それがプロトコルとして機能している社会とそうでない社会では、何をするにもプログラムの開発コストが何倍も違ってくる。
簡単に言えば、malaさんのような人がたくさんいないと、数年後の携帯の価格が数倍違ってくるということである。
もちろん、罵倒には多くの副作用があるが、こういう手法以外で、公共的な問題を公共的な文脈で議論することは(不可能ではないけど)難しい。プログラマが片手間で書いているブログであれば、仕方ないのではないかと思う。
これなんかも独特の言語感覚にあふれていて、もっと本格的にブログを書いたら面白いだろうなと思う。でも彼にはプログラムの方でがんばってほしいので「ブログをもっと書け」とは言わない。malaさんが二人いて一人がコードを書いて一人がブログに専念してくれたら一番いいと思うけど、おそらく、malaさんが二人いても両方ともコードを書きたがり、ブログは片手間の罵倒つきのままだろう。