言葉を多義的に使ってつながる人たちを見るとイライラしてくる人がいるという仮説
非常に意欲的なレビューだと思うけど、はてなブックマークの反応を見ると、随分評判が悪い。
それで、こういう文章への感情的な反発がどうして生じるかについて、ちょっと思いついたことがあるのでメモ程度に。
製品レビューの重要な機能は、その製品を買うべき人に「これはあなたの為の製品ですよ」と伝えることだ。たとえば、
となれば良いレビューである。これと同じように
- 「MacBook Airは『知性のつまった1枚の板』という製品のコンセプトを美しいと感じとれる人の為の製品だ」というレビューが出る
- 「MacBook Airは『知性のつまった1枚の板』という製品のコンセプトを美しいと感じとれる人」とは自分のことだと思う人が、MacBook Airを買う
- 買った人は満足し、レビュアーに感謝する
となったとしよう。そうなったらどちらも同じように良いレビューになると思うけど、おそらく、Let'snoteの方に対する反応は「フーン」くらいで、MacBook Airの方は「カルトと信者」「キモイ」といった悪口を言われるような気がする。
どちらも、パソコンユーザをある特定の概念で分類し、その分類と製品のマッチングを示しているだけである。そして、その分類の内部にある人は、その概念について相互に了解している。
違いは、その分類の為に使われる言葉の性質である。
「真のモバイラー」という言葉、あるいは一般的にレビューで使われる言葉は、厳密に定義されてはいないが、しようと思えば定義できる言葉である。たとえば、「バッテリーでの使用時間が、週に○○時間以上の人」とか。
それと比較して、「MacBook Airは『知性のつまった1枚の板』という製品のコンセプトを美しいと感じとれる人」という表現は、本質的に多義的である。自分がそれに該当すると言う人が集まっても、どこに美しさを感じるかを言葉にして定義しようとしたら、意見はバラバラだろう。
この「多義的な言葉に共感して集まる人たち」というのが感情的な反発を呼ぶのではないだろうか。
つまり、このレビューに反発する人は、「言葉というものは、誰もが同じ意味で使うものであり、そう使うべきものだ」という信念があるのだと思う。自分と関係ない世界で自分に興味が無いことに熱中している人たちのことでも、彼らが使う言葉の性質が気になる。
彼らが使う旗印のような言葉が「真のモバイラー」のように、一つの意味に集約されていく性質のある言葉だったら、そこには興味を持たない。しかし、「知性のつまった1枚の板」のような曖昧な言葉を、彼ら同士で意味を詰めることなしに使っていると気になってしまう。
相互了解が発生しているだから、そこには集約されるべき一つの意味があるはずだと思うのだが、それが一向に見えてこないし、それを使って集まっている人たち同士が、それぞれがその言葉に託している意味の違いを気にしている様子が見えない。そこが気になって「信者」「キモイ」という感情的な反感を生むことになる。
つまり、(ちょっと強引だけど)ここにあるのは、「言葉を一義的に使う人たち」と「言葉を多義的に使う人たち」の対立ではないかと思うけど、どんなもんでしょう?
つまり、デザインと一意の価値観は両立しないということだと思う。ビルの設計にユーザが参加すると言っても、その設計要素一つ一つについて、ユーザ各人が与える意味は一致しない。同じものに違う意味を見ながら合意していく為の道具がパターンランゲージであり、「意図的な曖昧さの導入」なのだろう。
それが、ここらへんに関係してくるのではないかと思いました。
たとえば、「公園」について、ある人は「デートコース」と思っているし、ある人は「犬の遊び場」と思っているし、ある人は「避難場所」と思っていて、誰もが「公園」という言葉で違うことを考える。でも、そういう人がたくさん集まって、その意味を一致させないでも協力して「公園」を作ることはできる。
いや、どういう公園にするか決める為には、「公園」の意味を参加者全員で一致させなくちゃいけないけど、その為に必要な一致の度合いを減らすのが「パターンランゲージ」なのかなと。
つまり、できるだけ多義性を残したままコミュニケーションを行う為のツールがパターンランゲージである。
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