官僚制解体の一般的方法論としての「アジャイル」と「エクストリーム」

「戦略的思考のなんとか」みたいな本は、ほとんど戦争の本ではなくてビジネスの本です。

軍事→ビジネス→その他の組織

という経路で導入された考え方のなんと多いことか。

そもそも、官僚制というやり方自体が、だいたいはこの経路で一般化したものでしょう。

  • 形式的で恒常的な規則に基づいて運営される。
  • 上意下達の指揮命令系統を持つ。
  • 一定の資格・資質を持った者を採用し、組織への貢献度に応じて地位、報償が与えられる。
  • 職務が専門的に分化され、各セクションが協力して組織を運営していく分業の形態をとる。

20世紀は「官僚制の世紀」です。ほとんどあらゆる組織がこの原則で運営され、この方法が社会の常識となっています。

もちろん、それは20世紀の環境ではうまくいったから広まったのですが、この限界と弊害もいろんな所に見られるようになっています。21世紀はこれを解体、止揚していくことが、社会のさまざまな局面において必要とされるでしょう。

それで、私は、この解体の動きは、次のように進むのではないかと思います。

IT→ビジネス→その他の組織

アジャイル」という言葉が、ITの世界のごく一部で流行りはじめているのですが、これがこの「官僚制」を解体していく為の方法論として、社会のすみずみにまで共有されいくのではないかと思っています。

「戦略」なんていう、もともとは軍事の言葉が本屋のビジネス書の棚を覆い尽くしてしまっているくらいだから、ITの言葉がそれにとってかわったっていいんじゃないでしょうか。ITは今や犠牲者もたくさん出ている戦争とも言えるし、そもそも、戦争は「敵」という異物、ITは「コンピュータ」という異物と社会の接点です。異物と真正面から向きあわざるを得ない人たちの中には、偉大な知恵が生まれてくるものです。

アジャイルプラクティス 達人プログラマに学ぶ現場開発者の習慣
アジャイルプラクティス 達人プログラマに学ぶ現場開発者の習慣

そういう意味で、これはプログラマだけでなく万人におすすめです。

たとえば「設計は指針であって、指図ではない」というタイトルの章があって、そこにフォン・ノイマンの次のような言葉が引用されています。

自分でもよくわかってないことを厳密にしても意味がない

これは、ちょうと上記の「形式的で恒常的な規則に基づいて運営される」という官僚制の原則と対になっているのではないでしょうか。

あるいは「共同所有を実践する」という、プログラマに固定された担当範囲を割りつけないということを勧めている章があります。これは意図的な分業の否定です。

アジャイル」とは、現在の所は、ITという狭い世界の中でのソフトウエア開発という特定の業務における仕事の方法の改善、というとらえ方をされていますが、私は、この方法論の射程はもっとずっと大きく、「官僚制」というある意味で社会の基盤となっている常識に対するアンチテーゼだと考えています。

そして、ソフトウエア開発の現場では、戦争と同じく、お題目だけで明確な成果を残せないものは、生き残ることができません。

アジャイル」はラディカルな思想を含んでいますが、あくまで実践的な方法論です。だからこそ重要だと思います。

このエントリで書いたグーグルの会社組織の運営手法は「アジャイル」をビジネスに適用したものと言えし、それはビジネスの枠を越えて広く共有される社会の一般常識となるでしょう。

20世紀は、印刷物やテレビや電話のような情報をコントロールするための装置が進歩して普及しました。だから官僚制が有効だったのですが、21世紀は、情報を共有する装置が進歩して普及しています。それを前提とすると「アジャイル」が必要とされるのだと思います。

情報を共有する装置が普及すると、環境に関与する人間の数が増大して不確実性をもたらします。不確実性、変化に対応することがあらゆる組織に求められるわけです。だから、組織の内部でも情報を共有することを前提とし、環境の変化に対応できる方法論が求められていくということでしょう。

だから、ふつうのビジネスマンもこれからは、徳川家康武田信玄のような戦国武将の本ではなく、ケント・ベックやアンディー・ハントやデイブ・トーマスといった達人プログラマの言行録を読むべきです。

そして、これと関連して「エクストリーム」という考え方も提唱したいと思います。

アジャイル」は複数の方法論の総称ですが、具体的な個別の方法論として「エクストリームプログラミング」というものがあります。なぜエクストリーム(極端)なのかと言うと、「良いことは何でもとことん(極端に)やってみよう」というポリシーがあるからです。

たとえば、「テスト用(検証用)のプログラムを書く」ということは、アジャイル以前からソフトウエアの品質を高める良い習慣とされてきました。

しかし、必要とされるプログラムを書いた上に、もう一つ本番では使われないプログラムを書くのは、大きな手間がかかります。だから、以前の常識では、特に重要なプロジェクトの重要なプログラムについてのみ、テスト用のプログラムを書くものでした。

つまり、良い習慣であっても、コストと便益のバランスを見て、ちょうどよいくらいに導入しようということです。

エクストリームプログラミング」では、そのバランスというあいまいさを否定して、「テストファースト」ということを言っています。「先にテスト用プログラムを書け=全てのプログラムに対して書け」ということです。

従来、「良いことだけど副作用もあるからバランス良く導入しよう」とされてきたことを「例外無しに全面的に導入する」という極端なことを主張したので「エクストリーム」なのです。

この「エクストリーム」でこんなネタを書いたことがあります。

これは、弁証法の正反合で言うと、反を見ながら正を少しづつ合に持っていくということではなくて、とりあえず反にしてしまって、反の位置から合に持っていくということだと思います。

小泉改革は少なくとも自民党にとっては良い結果となったと思いますが、非常に「エクストリーム」です。安倍さんにしても福田さんにしても、小泉の後始末っぽいことをしているということで、かろうじて政権に留まっているわけですが、小泉抜きであの二人が出てきても何もできなくて政権から転落していたでしょう。自民党の延命という視点で見れば、小泉さんは「反」で、安倍さん、福田さんは「合」ではないかと思います。それ以前の「正」の位置から直接「合」に持っていく解が他にあったでしょうか。

自民党でなく日本を延命させる為には、小泉さんよりもっと「エクストリーム」な人が必要なのでしょう。

また、ベーシックインカム*1、この文脈で言えば「エクストリームウエルフェア」でしょう。

手当の支給を例外としている現状(「正」)から適正な配分の社会(「合」)に持っていくのではなく、原則支給するという「反」の位置から、「合」に持っていた方が簡単だと思います。

「エクストリーム」の原則を適用すべき改革は多いと思うし、同様に「アジャイル」による官僚制の解体も多くの組織に要求されてくると思います。

*1:カワセミの世界情勢ブログなんていうとても格調高いブログでとりあげていただいたこともあってつけたしました