利権団体重要、でもその前に「公」とは何かもう一度考えよう

アメリカは日本とは比べ物にならないほどの「利益団体社会」であり、むしろ「多様な利益団体の集合体」こそが「アメリカ」だと考えるべきなのかもしれません。

アメリカという国の現状分析としては、これは適切なまとめだと思う。私も、"United Clusters of America"という言葉を使って同じようなことを書いたことがある。

アメリカの民主主義は、主権者がクラスターを形成することを要求する。クラスターとクラスターがぶつかりあってお互いを削り合う場は用意されていて、よく機能している。たぶんあの国は、人々が集まった国ではなく、州が集った国でもなく、大小さまざまな境界のはっきりとしたデジタルなクラスターが集まった国なのだろう。

それで、この仕組みがうまく働いている部分と、そうでない部分がある。id:sivadさんの上記のエントリでは、私の利権が無い文化を育てれば日本は生き残れるというエントリにリンクされているが、私としては、利権団体やその集合としての "United Clusters" という国のあり方を全面的に否定するつもりはない。

アメリカ市場とアメリカ人のギャップと Uncategorizable な日本のコンテンツに書いたように、アートやエンターテイメントの分野では、この過剰なクラスター化がマイナスに働いていて、消費者としてのアメリカ人はそれに疲れているように感じる。クラスターとクラスターの狭間にこぼれ落ちた市場を集めればそれなりの規模になるし、そこにあるギャップはむしろ日本が現状で得意分野としている部分だろう。だから、ここでアメリカの真似をして後追いするのは、意味がないと思う。

しかし、利権団体が無いことが明らかにマイナスとなっている分野もある。日本の理系が敗北するたった一つのシンプルな理由にあるように、科学者や研究者の為の利権団体は必要である。ただし、それは、単なる特定の人の利害を代弁するということではなくて、一定の公的な役割を認識してないと駄目だと思う。

別のエントリで、id:sivadさんは、「最強の民間理系支持団体AAAS」が作成した Project 2061 という文書について、こう書いている。

これは、科学哲学の専門書ではありません。 アメリカ国民があまねく身に付けるべき科学的素養の基礎と位置づけられているのです。

科学者が(目先の産業への応用とかのセコイ考え方ではなく)科学者の考え方によって科学を研究し、それを広く普及することには、社会的意義があるということだと思う。科学者や研究者の社会的立場を守ることは、その大きな社会的意義という大きな目的の為に有用だから、その手段として重要なこととされているのだろう。

ここで重要なのは、このような性質の団体が持つ二面性について標準的な国民がどのような見方をするかである。つまり、理系支援団体であれば、「科学の進展と普及」という「公」の部分と、「関係者の利害を守る」という「私」の部分がある。

欧米では、この「公」と「私」は車の両輪で、両方同等に重要だし、両方あってはじめて両方の目的を達成できるものとされる。

日本では、「公」の部分は単なるタテマエで、本当の目的は「私」であり、「私」の為の団体と見なされる。

そして、どちらでも、中の人は回りの期待通りの行動をする。つまり、欧米では「公」の目的の添って「私」の優先順位をつけるし、「私」の目的実現がどのように「公」につながっているかのアカウンタビリティを保とうとする。日本では、「私」をゴリ押しする為だけに「公」の大義名分が存在していて、それは、他の利権団体の「私」以外に有効な抑止力を持ってないようなケースが多い。

これらのエントリで繰り返し論じてきたことだが、これについては、歴史的な理由があると思う。

まさに科学がその典型だけど、ヨーロッパでは教会の権力が強くて、あらゆる利権団体は教会と戦ってきた。「聖」と「俗」という分け方で言えば、「聖」は明かに教会側にあるので、利権団体は「俗」の中に自分たちの「公」を打ちたてなくてはならなかったのだ。「俗」は単なる私利私欲のどつきあいではなくて、その中に一定の「公」的な役割を持っている。「聖」の影響力を排除するために、自分たちの「公」の部分に実効性を持たせることが必要だったのである。

津田大介さんの発言が誤解されるのも、津田さんが音楽の未来について本当に「公」の立場から考えていることが、「私」から出た発言であると無理に翻訳されて理解されてしまうということだろう。津田さんが、理想通りとは言えない現状を正確に認識していて(つまり空理空論を言うだけの「聖」ではない「俗」の立場に立ち)、なおかつ「公」の人であるということを、そのまま受け入れる枠を頭の中に持ってない人が多いのである。

私も、日本が"United Clusters of America"を真似てうまくいけば、それにこしたことはないと思う。

でも、その為には、かなり歴史的な経緯を持つ「聖俗と公私のよじれ」という問題を同時に解きほぐしていかなくてはならない。中の人と外の人が同時に意識改革をしないといけない。「俗」だけど「公」、つまり、「きれいごとを言うわけではないけど、みんなのためにもこれがいいし、自分たちもそれが助かる」という主張を、マジに主張して、マジに受け取る、そういう議論が必要なのだ。

それと同時に、"United Cluster of America" ではない別の「公」のあり方も模索すべきだと思っていて、2ちゃんねるの中にはその萌芽もあると考えている。「聖」を倒してうちたてる「公」のあり方は、実際よく機能してはいるけど、英雄神話から発している部分もあるので、必ずしもグローバルスタンダードとはいいきれないのではないか。日本の混乱の中から、別の選択肢が生まれてくる可能性があると考えている。