パワーゲームは永田町で起こってるんじゃない、あなたの心の中で起こっているんだ!
前者は、転職コンサルタントによる「事実を元にしたフィクション」で、地元の大企業にコネ入社したクライアントが、東京への転職を志し、希望通りの会社の内定を獲得したのに最終的に諦める話。
そのKさんというクライアントにとって、両親や親戚一同から強い反対を受けることは想定の範囲内であったが、
週末になると、どこから連れてきたのか10年来会っていない中学時代の担任、市役所に勤める高校の同級生、近くに住む県議会議員といった人たちが集まってきて、「地域に根ざした生き方の素晴らしさ」を代わる代わる説いていった。 もっとも驚いたのは、家族にはまだ話していなかった恋人が、会社の上司と一緒に自宅に話し合いにきたことだった。 「ど、どういう繋がりなの?」 「小学生の頃、家庭教師してもらってて…。ねえ、私からもお願い」 地元の人間関係の狭さは、Kさんの周りに張り巡らされた網になっていた。
という予想をはるに超える包囲網の為に断念したという。
後者は、格差社会、学歴による格差の固定化についての議論から派生したエントリだけど、地方では人間関係の基盤としての高校がどこであるかということが重視されていて、大学については評価されない(ほとんど意識されない)という話。
どちらも、地方特有の湿った人間関係の息苦しさがよくわかるエントリだ。全部ではないかもしれないけど、多くの若者が、可能ならばここから逃げ出したいと思うだろう。
地方と都会の格差是正というが、こういう所に都会から金を引っぱってくることが格差是正になるのだろうか。むしろ、金でなく人を引っぱってこなくては、継続可能な経済は生まれないだろう。引っぱってきた金が、将来、人を集めることに使われるならまだ見込みがあるが、この、人をがんじがらめに縛るメカニズムが拡大再生産されることにつぎこまれるとしたら、若い人を地元から追い出す為に金を使うようなものだ。
もちろん、社会というのは経済や市場だけで成り立つものではなくて、共同体意識、人と人のつながりがないと回らない。「濃厚な人間関係のネットワーク」が団結力や文化となり、グローバルな価値につながる可能性はある。
問題は、そのゲームをやっている人が、そのことをどれくらい楽しんでいるかだ。
ただ、この仮定には若干の誤りがある。というのも、閉鎖的な地域の人は、表面上は親しげでも、実は相手のあら捜しを四六時中しているということが往々にしてあるからだ。
匿名氏のこの意見に私も同感で、決して彼らは、地域の共同体の中で安心してはいないし、それを誇りにも思ってないし、もちろん楽しんでもいない。それが一番問題だと思う。
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「自分がそこにいても楽しくないコミュニティに他人を巻き込む」という傾向について、いろいろな表現で書いてきたが、これは日本の根深い、やっかいな問題の一つである。
そして、福田内閣の成立において大きな役割を果たした、「派閥」というものは、そのシンボルである。
派閥の陰には多くの国会議員がいて、その議員一人一人が地域では大ボスである。地方には、その大ボスを支える無数の組織があって、その一つ一つに多くの人が関わっている。その基盤となるのは、冒頭二つの記事に書かれている、「濃厚な人間関係のネットワーク」である。今回の政変は、それがいかに根深いものであるかを示した。
それが国民の総意であるなら、この国はそのように運営されるべきだが、問題は、誰もそのことに安心してはいないし、それを誇りにも思ってないし、もちろん楽しんでもいないことだ。
もし、Kさんが、自分を説得している人たちに、「あなたはこの地域の中で、そういうネットワークに取り囲まれて暮していて楽しいですか?」と聞いたら、「楽しいこともあるがいやなこともある。正直に言えばつらいことの方が多い。でも世間とはそういうもので、そういう中で生きるのが人間なのだ」とか言うだろう。
派閥を下支えする地域のボス的な人に何人か面識があるが、私が知っている範囲では、自己抑制ができた無私の人がほとんどだ。地方の人にとって、人間関係のネットワークを維持するのはつらい仕事で、その取り纏めというのはもっと大変な仕事で、個人的な権力欲でその地位につく人は、意外に少ないのではないか。その苦労に見合うような金や権力が手に入ることはあまりないし、実は、自分の支持者たちにも陰でたくさん悪口を言われることを彼らはよく知っている。実は、彼らがそれを一番よく知っていて、何をどうやっても叩かれる立場だから、自分がその位置について犠牲になるつもりで、彼らは地域の小ボスをやっている。
派閥というのは、そういう人たちが基盤になっているから根強いのだと思う。地域の小ボスは、最初から個人的な利害を度外視して、「地域の為に必要なことだから」それをやっている。自分の独断でそれをやめることは許されないし、そういう選択肢はもともと彼らにはない。利害を計算できる人は、そういう小ボスを批判して、背後から動かせる立場に回る。おいしい所を持っていくのはそういう人であり、そういう人は情勢を見極めてうまく逃げたりする。
そして、「地域に根ざした」一般の人は、そういう馬鹿らしいゲームの裏側までよく知っているが「それが世間というものだ」と言って変える努力はしない。ひょっとしたら、そういう中で育って今30代くらいの人は、2ちゃんねるに「麻生がんばれ」とか「ネベツネ死ね」とか書いているのではないだろうか。
「ひょっとしたら」というのは実はレトリックで、本当は、ここが一番このエントリで書きたかったことだが、小泉郵政選挙でも今回の政変でも、自民党が二つに割れて抗争が勃発する時、両者の支持基盤の中には重なりがあるのではないか。同じ人が、昼は、所属派閥の意向に添った福田支持の地元の議員の集会に出席して、夜は麻生支持の匿名のブログをこっそり書いているとか。
単なる直感なのだが、「抵抗勢力」と「改革派」の双方から、「自分の陣営の支持者」としてカウントされているような人が、馬鹿にならないような人数でいそうな気がする。
今回の組閣のニュースとか見てると、派閥の長というのは悪相が多いと改めて感じるが、これは国民の意識の反映でありある意味自画像だ。多くの国民の意識が、浮世の義理に縛られた「きたない自分」と、それを良しとはしない「きれいな自分」に分裂している。「きたない自分」の行動によって動くものの集積が派閥になっているのだから、その長が悪相になるのは当然で、職業病のようなものである。批判すべきことではなくて、彼らの労をねぎらうべきだ。
ネットは、「改革派のきれいな自分」の方にも表出の回路を与えた。それが小泉支持、麻生支持となり、時に政治を動かす現実的なパワーとなった。しかし、国民の意識が分裂している限り、それが「派閥」にシンボライズされる「現実的な政治」を駆逐することはあり得ない。
でも、本当の意味で現実的な政治とは、理想論と現実論の間に、何らかの対話が成立している政治だ。それは、私たち一人一人の中で、「浮世の義理に縛られた抵抗勢力としての自分」と「理想を目指す改革派としての自分」とがどれだけ対話できるかにかかっている。田舎というのはその乖離を可視化する装置であって、都会に住んでいるとこの問題から逃げやすいけど、やっぱり逃げられるわけではない。