世界観について自己責任でセーフティネットがない国

日本の社会システムは、欧米から輸入された部分と日本独自の部分があって、和魂洋才の二重構造になっていることは、今では広く知られている。ひとことで言えば、社会と個人で成立しているシステムを輸入する時に、日本では「世間」というローカルなシステムを温存し、社会と個人の間にこれを再配置した。

たとえば、自然災害があった時に、自衛隊が避難所の公民館まで食料を届けてくれれば、それを各人に分配するのは「世間」の仕事になる。実際の運用は違うかもしれないが、そのような形で人は「世間」をイメージし、これに縛られつつ貢献してきたのだ。

社会、あるいは公共性とは、日本においては、複数の世間の間に立つ調停役でしかない。所属する世間を持たずに名刺の肩書に書けるような世間の中でのポジションを持たない者は、社会の一員とはされなかった。社会と個人の間にダイレクトな接点はない。必ず、個人は世間と通して社会と相互作用をする。個人を第一に律するのは、世間の中の暗黙のルールであり、司法とは世間が処理しきれない問題のエスカレーション先でしかない。

ここまでは、言語化されているかどうかは別として、漠然となら共有化されている認識だと思う。

しかし、「世間」は、社会システムの一部であると同時に、もう一つ別の機能がある。それは、世界の不確実性から人を心理的に守るという機能だ。

たとえば、台風や地震などの天変地異が日常の中に侵入してきた時に、安心感を与えてくれるのは世間である。天変地異があった時に、避難して逃げこむ先の公民館の中に、自分が所属しているコミュニティが維持されているという予測が、安心感を与えてくれる。

これは、わかりにくいかもしれないが、年賀状から切り離された自分というものをイメージすればわかるかもしれない。年賀状の相手が、全員新年をともに祝いたい親友である人はめったにいないだろう。あるいは、直接の利害関係がある相手ばかりという人もいないだろう。特に好きでもないし特に利害関係もない人と漠然と儀礼的なやりとりをするのは、それによって「世間」に所属しているという安心感が得られるからである。

「世間」の中では時間はほとんど止まったままなのである。ただ、日々が過ぎてゆくだけなのである。たしかに時間の経過に違いはない。しかし時間は何かの目的をもって流れているのではなく、動植物の成長と老衰と同じように経過してゆくに過ぎない。(中略)いわば世間には歴史がないのである。

阿部謹也氏は、「近代化と世間」の中でこう言い、「今後ともよろしくお願いいたします」「先日はありがとうございました」といった挨拶が、「共通の時間意識の確認」であると言っている。その証拠に、この挨拶は外国語には翻訳しにくい日本独自のものであるそうだ。

「世間」には、このような循環的な時間を作り出し、予測不可能な外部から個人を心理的に守る機能がある。年賀状を一切出さない自分を想像すれば、その「循環的な時間」から切り離され、不可逆で予測不可能な現実に直面させられる不安が少しだけ想像できるだろう。

これは限りなく信仰に近いものではないかと思う。

多くの日本人は、自分のことを無宗教あるいは世俗的な儀礼としての仏教信者、神道信者であると思っている。しかし、多くの国で「神」が人々の世界を支え、世界の不気味さから彼らを守ってくれるように、「世間」はその人の世界を支えている。世界の不気味さから守ってくれている。

あるいは、合理的に考えたら、この地球の上で自分の価値など無いに等しい。どう見ても自分は塵芥のようなものだ。それが現実である。本当の意味でその現実に直面したら、人は死ぬしかない。そこから人間を守ってくれるものが信仰である。この意味でも、「神」と「世間」は同じ機能を果たしている。

社会と個人の間を仲介する、社会システムとしての「世間」は明らかに機能不全を起こしていると思うが、こちらの、信仰の対象としての「世間」は、まだまだ必要とされているのかもしれない。

世界がどれくらい不気味で陰影に満ちたものであるか、ということを収容できる容量にはかなり大きな個人差があって、それは知識や年齢や人生経験とは全く相関関係がない。その容量の少ない人の為のセーフティネットは必要であるし、その代わりとなるものは存在しない。その結果、世間から放り出された日本人は、世界の不気味さや底知れぬ陰影と一切の媒介なしに直接対峙することになる。

『暴走老人!』という本が話題になっているそうだが、自分たちが「信仰」のより所を喪失しているということに気がつかず、何の手当もしなかった世代が老人になってきたことで発生した問題だと私には思える。「世間」への信仰を人に押しつけることは、宗教を押しつけるくらい無礼なことだし、「世間」の機能を盲目的に破壊することは、宗教を奪うくらい非人間的なことだ。戦後の日本はそれを両方同時にしてきたのだ。「暴走老人」はその加害者であると同時に被害者である最初の世代なのではないだろうか。

私は、基本的には「世間」はもう終わりにすべきだと思っている。また、これを破壊することによって、本当の意味での無宗教の国になることは、日本にとって良いことだと思っている。ただ、それは全てを自己責任に帰着して格差に一切考慮しない極端な市場原理主義者のような主張なのだろうなとも思っている。

だから、「世界の不気味さを受け入れる容量」が低い人に対する何らかの手当が必要なのだと思うが、それにはまず、「世間」を今だに信じている人たちが、それが合理的な根拠を持たない宗教である(からこそ自分たちにとって犠牲を払っても守るべきものである)ことを自覚することが必要なのではないだろうか。