アルファブロガーは烏山宛の年賀状を出すか? -- 松永さんの社会復帰と「世間」への復帰

オウム/アレフの物語 - カミングアウト(改訂版)に松永さんが過去の経歴について書かれている。この中の「民主党自民党の懇談会への参加について」を読むと、松永さんは、「懇談会」というものの世間的な意味について、理解してないように思える。

世間というのは、年賀状やお歳暮を送りあう、同窓会とか親戚等のローカルなグループであって、普通の日本人はそのローカルなグループに複数所属して、多重所属するメンバーの連鎖によって日本の社会はできている。営業に行って、同じ大学の出身者がいたら、まず先方と共通の知人がいないか確認して、もしいたらその商談がスムーズに進む可能性が高い。こちらの世間と先方の世間は、その共通の知人によって連鎖して、それによって先方とこちらが同じ世間に所属していることに安心するのだ。その知人との直接の関係の濃淡は問題とならず、ローカルな世間に共通に所属していることのみが安心感を生むのだ。

「懇談会」とは、そのような意味の「世間」を人為的に作る為の集りであって、人と人がつながることではなくて、世間と世間が連結されることで、新しいプロジェクトが生まれる可能性を求めて、多くの日本人は懇談会に出席するのである。そこでは、情報が交換されるのではなくて、名詞が交換され、まず年賀状が往復する関係ができて、それがお歳暮や冠婚葬祭の関係に進展することを期待する。

おそらく、ブロガー懇談会は出席者にとってはそういう種類の日本的な懇談会ではないと思うが、外から見たら、そのような世間と世間の連結の為の集りと見られるのだと思う。

松永さんは烏山のアレフの施設に住んでいる時期に民主党のブロガー懇談会に出席したということなので、象徴的に言えば、アルファブロガーたちが松永さんに年賀状を送ったとしたら、その宛先は烏山になる。つまり、彼らの所属する世間とアレフの世間は近接し合体したひとつの世間になりつつあると、平均的な日本人は見るだろう。

日本の法律と建前は、アレフが(当局の監視下で)存続する権利を認めているが、大半のローカル世間は自分の世間がアレフの世間と連結することを許さない。たぶん、それがグローバルな世間の見方だ。世間のルールに従って世間に復帰しようとするならば、信者は、自分がオウムの世間と切断したことを世間に認めさせることが必要である。オウムには、そのような意味の世間はないのではないかと想像するけど、世間はそのようにみなさないだろう。

泉さんにしろ、主催者側の政党にしろ、素性を調べなかったというのは、会の規模や趣旨からしてもむしろ当然のことで、特段の手落ちとはいえないと思います。泉さん、民主党自民党には責任を負わせないでいただければと思います。

個人が単独で社会に所属する建前で言えばこのとおりで、手落ちはないかあったとしても些細なことだ。しかし、個人がまずローカル世間に多重帰属して、その連結であるグローバル世間の本音から言えば、これはアレフがグローバル世間に復帰しようとする活動と見なされ、そうでないことを証明するには、松永さんが「アレフにはグローバル世間に復帰する資格がない」と言って「こちら側の人間」であることを証明する必要があるのだと思う。

もし松永さんが社会復帰を模索する元オウマーオウム信者であるとしたら、この問題に直面するのだと思う。それは彼にとっても難題であるが、彼を通して別の難題に日本人は直面させられる。つまり、我々は「世間」というシステムを継承するのか否定するのか、彼が復帰するべき先は(ローカル世間を通して個人を間接的に収容する)「世間」なのか(言語化されたルールの元に個人が個人の責任で所属する)「社会」なのかということだ。

私としては、一般論としてはこの国が「世間」からはじき出された人たちにも居場所がある「社会」であって欲しいと思う。しかし、「世間」に所属せずに「社会」のみへの復帰を目指すには、松永さんをとりまく状況はややこし過ぎる。ブロシキ - 匿名実名話再び・「私」についてでsantaro_yさんが考察され、松永さん本人がコメントしているように、着脱できない単一の人格を前提としている社会に、複数の人格に「スイッチを入れたり」消したりできる人が、どのように所属すべきかわからない(「オウム/アレフの物語」を書いている人格の「スイッチ」が切られることがないのか保証が無い状態で、このテキストをどのように読んだらいいのかわからない)。「社会」へ復帰する為の要件がわからない状態で、「社会」VS「世間」という課題として松永さんを支援することは難しいような気がする。

もし松永さんが社会復帰を模索する元オウマーオウム信者であるとしたら、「社会」と同時に「世間」へ復帰も視野に入れて、所属を明らかにせずブロガー懇談会に出席したことについて、「世間をお騒がせしました」的なお詫びをした方がいいと思うが、それにはあまり確信はない。

(「世間」についての参考リンク)

(追記)

サブタイトルを「松永さんと「世間」と「社会」」から「松永さんの社会復帰と「世間」への復帰」に変更しました。また、後半の論旨は混乱していると思いますが、書き直す時間がないので、後日、別途続きのエントリを書きます。